カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.21(日) 『ごろごろ、神戸。』

自分で料理をしはじめてから、たいていのものは自分で作る方が美味しいと思うようになった。
さすがにそれは言いすぎだが、少なくともチェーン店で提供されるものや、スーパーで買えるような惣菜なんかよりは美味しい。
18のときに一人暮らしを始め、結婚するまでの数年間は自炊なんてほとんどしなかったが、結婚を機に徐々に料理の楽しさに目覚め、レパートリーを少しずつ増やしてきた。
料理は家事という現実的な作業の一方で、自分にとっては内省のツールでもある。
食材を刻みながら、調味料を混ぜながら、フライパンの上で肉が焼き上がる様子を見ながら、スープをことこと煮ながら、自分と向き合う恰好の時間だ。
それでいて、美味しいご飯が食べられるのだから、オイシイ家事なのだ。

二十台で自炊生活を始めた時、おい、これどないなっとんねんと驚いたのは、自分で作った筑前煮がめちゃくちゃにおいしかったことだ。

出展:『ごろごろ、神戸。』(平民金子著、ぴあ)

平民金子氏のこの文章に、いたく共感を覚える。

それは自炊世界における味覚の扉が開いた瞬間だった。

私もおなじように味覚の扉をひらいてしまったひとりであるのだろう。
と、ここまではよかった。
ここから少し様相を変え始めたその文章に、己の行いを省みざるを得なくなってしまうのだ。

 それから私は家庭料理の奥深さにハマり、台所を中心とした家事全般の求道者となった。そしてすぐに気づくのだ。自分が作った世界一の筑前煮も、それを食べさせる第三者にとってはスーパーや給食のものと同じで、ただの筑前煮にすぎないのだということに。
 生きているかぎり休みなく作業が続く家庭料理のシビアな世界で、私が筑前煮に感じたおいしさの境地に達することが出来るのは、あくまでも作り手だけの特権なのである。

自分は美味しいと思っているその味も、他人からすればあなたが店で食べるのと同様、なんら特別なものではないんだということなのだ。
その理由は、味付けのグラデーションにあると平民氏は言う。
つまり、作り手は出汁の効かせ具合や微妙な塩加減を逐一見ながら、調理を進めるので味付けのグラデーションが繊細に理解できるのに対し、食べ手の方はいわば完成品を受け取るわけでそこで味わう味は単一のものだというのだ。
手間ひまかけて作ったコロッケに、配偶者がいきなりソースをぶっかけて食べたことに対し、もう作ってあげる気をなくしたという旨のSNS投稿に対し、平民氏はその苛立ちは理解する一方で、「作り手だけの特権」である味のグラデーションを食べる側に求めるのは酷なのではないかと努めて冷静に言う。

この文章を読んで、なるほどと思った。
確かに自分で作ったものは美味しい。
だけどそれは、作り手と食べ手が一皿から受け取る情報量の差をほとんど考慮しない、いわばひとりよがりな感慨であったことに気づくのだ。
しかし幸いにして、自分で作った方が美味しいというその感想を、食べてもらう家族にあえて言うことはないので、自分だけの反省として処理できる点は助かった。

今日は息子のリクエストにお応えするかたちで、とんかつを作った。
美味しくできたと自負している。
しかし、これは味のグラデーションを把握する作り手の特権であることも、今日の私は理解している。
そう思うと、ソースをどっぷりつけて食べる子どもたちも可愛く見えてくるのであった。


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