カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.20(土) 「沈黙」

悪とは何か。
いまだかつてこの命題に対する確かな解を導き出せたものはいない。
なぜなら悪とは相対的なものであって、一義的に定めるための方法を我々人類は知らないからだ。
だからこそ、あらゆる芸術や哲学はこの問題に向き合ってきたし、これからも問い続けていくのだろう。
仮説と言う形でしか解を提示できない問題なのだ。

村上春樹の「沈黙」もそのような小説と言える。
この作品は語り手の「僕」が大沢さんと空港でコーヒーを飲みながら、新潟行きの飛行機を待つ場面から始まる。
「僕」はちょっとした好奇心から、ジムに通ってボクシングを続けている大沢さんに「喧嘩をして人を殴ったことはありますか」と問いかける。
大沢さんはボクシング経験者としての倫理から、リングの外で殴ったことはないと答える。
ただ一度だけ、ボクシングを始めた頃に(正確に言うと、ボクシングジムには通っていたが基礎トレーニングをやっていただけのとき)人を殴ったことがあると言って、語り始める。

それは大沢さんが中学生の頃、青木という同級生を殴ったという話だ。
大沢さんは青木を一目見たときから嫌いだったと言う。
大沢さんが無口であまり目立たないし、目立つのも好きじゃないタイプだったのに対し、青木は成績優秀で人気者、教師にも可愛がられていたクラスのスター的存在だった。
大沢さんからすると青木は要領がよく計算高いが、浅薄で実のない人間にしか感じられなかった。
そんな青木があるとき、大沢さんが一番の成績を収めた英語の試験でカンニングをしていたという事実無根の噂を広める。
大沢さんは青木を問い詰めるも、青木はすっとぼけて大沢さんを突き飛ばしその場を去ろうとする。
その時大沢さんは反射的に青木の頬に思い切りストレートを打ち込んでしまう。
その時はそれで終わったかのように思えたが、青木はひそかに復讐心を持っていたと大沢さんは語る。
次の事件は高校三年生になり、ふたりがふたたび同じクラスになったときに起こる。
同級生の松本という生徒が自殺をした際、大沢さんはその原因が自分ににあるという疑いをかけられる。
もちろん首謀者は青木で、松本が殴られていたという事実と、大沢さんがボクシングをやっていたという事実、このふたつの事実を巧みに結び付けることで、疑いの目を大沢さんに仕向けたのだということだ。
それ以降、大沢さんはクラスメイトだけでなく教師も含めたみんなから無視されるといういじめを受ける。
卒業までの残りの学校生活を孤独に過ごすことになった。

一義的な悪として青木が描かれるが、大沢さんは(あるいは村上春樹は)そうではないと語る。

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の話を無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。 自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当りの良い、受入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。 彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。 彼らは自分が誰かを 無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。 僕が本当に怖いのはそういう連中です。

ここでは傍観者がほんとうの悪なんだということになる。
思い返せば誰しも心当たりがあるんではないだろうか。
いじめる人、いじめられる人、そしてその他の大勢。
自分がいじめの当事者じゃなくても、その他大勢であったことはあるんじゃないだろうか。
いじめじゃなくてもいい。
対立構造が生まれたとき、その当事者に属さないものは、ここで言うその他大勢となる。
そしてその他大勢的なるものの無意識の暴力性こそが悪であるという主張に対する反論を、いまのところ私は持ち合わせていない。


f:id:cafeaulait-ice:20230521113756j:image