カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.18(木) 『ここじゃない世界に行きたかった』

煎茶が好きだ。
食事をしたあと、コーヒーを飲みたくなるその前にお茶を飲みたい。
お茶を飲んで、コーヒーを飲んでとなると、淹れるのも時間かかるし忙しいし、お腹もちゃぽちゃぽだわ、トイレは近くなるわ、カフェインで眠れなくなるわで、なるべくW摂取は避けるようにしている。
その時の気分でお茶にするかコーヒーにするかを決めている。
ある程度傾向みたいなものもあって、魚や和食っぽいもののときはお茶を選ぶことが多い。
お茶の淹れ方にあまりこだわりはない。
何度のお湯で淹れてもそれなりに美味しいし、注湯したあとの待ち時間も適当だ。
待ち時間が長くなりすぎると、濃くて渋くなるがそれはそれでいい。
最後の一滴まで注ぎきるようにマニュアルで指導されるが、せっかちなのか、適当なところで切り上げる。
幸か不幸か、一滴の違いを感知できるほどの上等な舌を持ち合わせていない。
要するにいい加減ということだ。
しかしこう思えるようになるまでには、それなりの試行錯誤もあったし葛藤もあった。
適当な一方で、凝り性な部分もあって、いかに美味しく淹れるかを至上命題としているときもあった気がする。
遠い昔のことだけど。
自分なりのポイントを見つけるために、まずは手順書確認する。
お茶の袋に書いてあればいいのだけれど、書いてないこともある。
そんなときは検索して、〇℃で〇秒、タイマーで測ってきっちり淹れる。
そしてたいして味わいもいせず、「ああ美味い」だなんて悦に入る。
何に満足しているのかよくわからない状態だったと思う。

そんなようなことを思い出したのは、塩谷舞氏のエッセイ『ここじゃない世界に行きたかった』を読んだからだ。

「このお茶、何度で淹れて、何分蒸らせばいいですか」
 ——そう聞いていた自分が、ちょっと恥ずかしくなった。正解を簡単に手に入れてしまうことは、その先の曖昧で自由な可能性を、ピシャリと閉ざしてしまうことでもあるからだ。
 感じる、
 考える、
 知る、
 考える、
 そして文章にしていく。
 遠い国へ旅をしたときにも、美術館や博物館を訪れるときも、できるだけ、この順番を大切にしようと思っていた。

ものを書く前段階として「情報との答え合わせ」にしないことを心がける塩谷氏が、茶畑を訪ねた際に感じた恥ずかしいこの感覚を、まさに私も感じるのであった。
過去の自分にということにはなるが。

だって私も、お茶を淹れるとなれば、まずは正解を検索して、そこに出てきた数字通りにやってしまう。ただ田口さん曰く、手っ取り早く答えに辿り着いてしまうと、そこから先に進みにくくなってしまうからすごくもったいないですよ、ということらしい。

人間は手っ取り早く答えを欲してしまう。
情報へのアクセスが容易になったぶん、感じて、考える機会を自ら放棄しているし、ともすればそのことに気づかないまま、満足してしまう。
しかしそれでは「そこから先」は見えないのだ。
検索すればなんでもわかってしまうようなこの時代に、あえて検索しない選択を取ることの重要性をお茶に、そして過去の自分に学んだ気がした。

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