カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.28(金) アンパンマン、『ごろごろ、神戸。』

『ごろごろ、神戸。』の続きを読む。
「あんぱんまん」という項の中で、著者の平民金子氏は自身のいちばん古い記憶を思い返す。
4歳くらいの頃のものといくつかの断片的な記憶があるだけで、それ以前のことは憶えていないと語り、それを「無」であると表現する。
だとするならば、子育てをしている今の自分は、自分の子どもにとって「無になる時代」のために捧げているのだろうかと平民金子氏は疑問を抱く。
平民金子氏のお子さんは、あんぱんまんに親しみを持ち、「あんぱんまん」「あんぱんまん」とそればかり口にしているそうだ。

うちもそうだったなと思い出す。
特に次男はあんぱんまんを連呼していた。
もっとも次男の場合は「あんぱんちゃん」だったが。

あれは5年前のとても暑い夏の日、家族で訪れた「やなせたかし展」でのことだ。
2歳になったばかりの次男は、ちょうどあんぱんまんに興味を示し始めたときで、何かの画面や紙面にあんぱんまんをみつけては、指さしながら「あんぱんちゃん!」と言っていた。
やなせたかし展には当然ながら、たくさんの「あんぱんちゃん」がいる。
あっちに行き、あんぱんちゃん。
こっちに行き、あんぱんちゃん。
次つぎとあんぱんちゃんを見つけていく次男に可笑しさを感じながらも、少し恥ずかしいなあなんて思ているうちに展示を見終えた。
ところが、本番はここからだった。
多くの場合、美術展には展示のあとにグッズ売り場が併設されている。
やなせたかし展も例外ではなかった。
むしろ子どもにとっては、こちらのほうがメインかもしれない。
想像してみてほしい。
あんぱんまんを見つけては、「あんぱんちゃん!」と大声で指さす次男がどうなるかを。

あ、あんぱんちゃん!
お、あんぱんちゃん!あんぱんちゃん!あんぱんちゃんあんぱんちゃんあんぱんちゃん!あんぱんちゃんあんぱんちゃん!あんぱんちゃん!
ありとあらゆるグッズを前に、とめどなく繰り出されるあんぱんちゃん。
エンドレスあんぱんちゃん。
小さなグッズ売り場に「あんぱんちゃん!」が響き渡る。
そこにいる誰もが笑いをこらえきれずに肩を震わせている。

ジャムおじさんはこんなことを言っている。
「笑いは、人の心をなごませる、とてもすばらしいものなんだよ」

いまも玄関に飾っている、そのときに買ったポストカードをみると、あの日のあんぱんちゃんと、笑いに包まれた光景を思い出す。

確かめてはいないけれど、次男はこのことを憶えていないだろう。
平民金子氏の言う「無」だ。
それはあんぱんまんのことだけではなく、限りない「無」だ。
子どもにとっては、二度と思い出されることのない「無」だけれども、私たちが過ごした時間と言うのは決して無くなったことにはならない。

私はずっとあの頃のことを、いっぱいいっぱいで毎日をやり過ごしていた日々のことをおぼえている。私の記憶とアンパンマンのキャラクター達は、先へ先へと成長する子供からぽつんと取り残されてしまったけれど、振り返った先にある日々の記憶はとてもあたたかいものだ。

引用元:『ごろごろ、神戸。』(平民金子著、ぴあ)

記憶というのは、過去から今を照らす灯りだ。


f:id:cafeaulait-ice:20230429081023j:image