カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.11(木) 『人質の朗読会』より「槍投げの青年」、『ごろごろ、神戸。』、足し算クロス

まだ客のいない早い時間にビールを飲み、黙々とこなされる仕込みの様子を見ているのが好きだった。

引用元:『ごろごろ、神戸。』(平民金子 著、ぴあ)

 

人が何かをやっているところは、一度見だすとずっとみてしまう。
たとえばプロ野球の試合前の練習。
たとえば誰かが絵を描いているところ。
たとえば職人が鉋で木材を削っているところ。
あるいはゲームだってそうだ。
誰かがテレビゲームをしている様子が、人気のコンテンツになるような時代だ。
なぜこんなに魅入られるのか。
目の前の反復と継続の中にいったい何をみているのか。
そんなこと、わかってもわからなくてもどちらでもいい。

子どもたちが寝静まったあと、妻は「足し算クロス」をささやかな楽しみにしている。
「これをやっているときは、何も考えなくていい。ただひたすら目の前の数字を埋めてんねん」
そんなふうに言う妻の「作業風景」をじっと見てみた。
えんぴつでカリカリ数字を書き込む。
うんうんうなってカリカリ書く。
うんうんうなってカリカリ書く。
ときどき、ごしごし消す。
うなって書いて消す。
うんうん、カリカリ、ごしごし。
間接照明のしたで黙々と解く妻と、それを見ている夫。
ある夜の風景。

小川洋子の連作短編集『人質の朗読会』に「槍投げの青年」という小説がある。
ある日、女性の通勤中の電車に長い筒状の何かを持った一人の青年が乗り込んでくる。
青年が降りた駅で、つられるように女性も降りてしまう。
女性は青年のあとをつける。
住宅街を抜けた先にあったのはグラウンドで、長いものは槍投げの槍であることがわかる。
青年は槍投げの練習を始め、女性は観客席からただそれを見る。

青年は幾度も投擲した。構える、助走をする、投げる、槍を取りに行く、それを抜いて助走の印まで戻る。これを淡々と繰り返した。こんなにも見事な肉体が躍動しているというのに、競技場を包む静けさはどこまでも変わりがなかった。私に耳に届いてくるのは、スパイクのピンの音、槍が手を離れ飛び出す瞬間の空気を切る音、そして青年が芝生を踏みしめる音、それだけだった。投擲が生み出すそれらの音たちは、静けさの底へと慎ましく吸い込まれていった。青年の邪魔にならないよう、私は咳払い一つせずに息を殺していた。


村上春樹は優れた短編小説について「すらすら読めて、しかも読み終わったあとで心に何か残る」ものと言っていたが、「槍投げの青年」はまさにそういう短編だ。
槍投げの描写と女性の心象風景とが静謐な筆致で心に迫ってくるこの名作を、私は何度も読んでしまう。
妻が数字と向き合っている傍らで何度も読んだこの小説を、一ページ一ページと繰っていく。


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