カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

読みたい本がなかなか読めない

読みたい本を見つけたとき、そのタイミングで読めればいいのだけれど、なかなかうまくいかない。
変なこだわりというか、強迫観念らしきものが邪魔をしてくるから。

①読みたい本をみつける。
②その本を買う。
③読む。

3ステップで済むシンプルな話だと思う。
ところがそうならないので困っている。
①本をみつけて、②買うまでの間にとんでもなく時間がかかる。
「その本の前にこっちが先じゃないか?」
「その本を読むためには、それまでにその著者が書いた本を読んでおかなくてはいけないんじゃないか?」
内なる自分がそう問いかけてくるのである。
いやいや、そんな声にいちいち耳を傾けていたら、読みたい本がなかなか読めまへんで。
その通りなのだが、実際に僕がとる行動の多くは「可能な限り過去の著作を刊行順にすべて読む」だ。
だって、その本を書くまでに至る経緯とか、諸々の変化とか変遷とかあるじゃないの。
それを踏まえたのと踏まえてないのとでは、読み方も変わってきそうじゃないの。
そう思ってしまうのですよね。

例えば昨年、柴崎友香著『百年と一日』を書店で見つけた。
まずはタイトルに惹かれ、装丁も美しい。
ぱらぱらと目を通してみるとおもしろそうである。
当たりの予感を持ったままレジで会計をして、家に帰って読めばよい。
なんなら家に帰る途中までに読むことも可能だ。
ところが、僕はこれまでに柴崎友香の著作をまったく読んだことがない。
どうするか?
一冊目から読んでいくのである。
Wikipediaで著作リストを確認すると25冊くらいあることが判明する。
すべて読み終えるには100年と1日くらいかかりそうな不安を感じながらも、1冊目から順番に読み始め、ようやく1/3くらいまで来た。

一事が万事この調子なので、読みたい本を読むまでの道は途方もない。

ついでに言えば、初期の作品は書店に在庫がないことが多い。
だからと言ってamazonなどのネット書店に頼る気にもなれないので、hontoを使って丸善ジュンク堂に取り寄せるという手間と時間のかけようである。
やれやれである。

当然ながらそんなことをする必要はまったくない。
読みたい本があるならその時に読む。
旬を逃してはならない。
頭ではわかっているつもりだが、身体がいうことを聞いてくれないのだからしょうがない。
結果、最初に読みたいと思った本にたどり着くまでにはとんでもない時間を費やしてしまう。

もっと素直になりたいと思う今日この頃です。