カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.8.6(日) 『夏の花・心願の国』原民喜

8月6日。
広島にとって特別な日。
6:30に起床し、子どもたちの朝食を作る。
玉子焼きとウィンナー、そしておにぎり。
いつもと同じメニューだ。
いつもと同じということがどれだけありがたいことか、今日は特に身にしみて思う。

今日は小学校の登校日でもある。
7:20頃、息子二人を送り出し、本を開く。
原民喜『夏の花・心願の国』から表題作「夏の花」を読む。
1949年刊行の本作は、著者・原民喜が自身の広島での被爆体験を元に書いた作品だ。
主人公の「私」は、広島に原爆が投下される少し前に妻を病気で亡くし、それまで暮らしていた東京から故郷の広島に疎開してきていた。
軍事産業の工場を営む実家での、兄弟やその家族たちと生活の様子が描かれる。
戦時中の死と隣り合わせにある暮らしを語る抑制の効いた文体が、逆に読者である私の心を締め付けてくる。
8月6日の8時15分、主人公の「私」はトイレに行っていたことで、一命を取り留める。

それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思わずうわあと喚き、頭に手をやって立ち上った。嵐のようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった。その時まで、私はうわあという自分の声を、ざあーというもの音の中にはっきり耳にきき、眼が見えないので悶えていた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりに中に破壊された家屋が浮び出し、気持ちもはっきりして来た。

引用元:原民喜『夏の花・心願の国』(新潮文庫)

「それはひどく厭な夢のなかの出来事に似ていた」という体験は、想像もつかない。
しかし滅茶苦茶になった家の内外や、傷を負い助けを求める人々の描写も、文章で読む妙なリアリティに心がざわつく。
当時の惨状を思えば思うほど、こんなことは二度と起きてはならないと、当たり前のことを当たり前のほうに思うしかないのである。

本を読み終えたところで、ちょうど8時になった。
テレビをつけ、平和記念式典を見る。
8時15分、サイレンが鳴り黙とうをささげる。

そのとき、私はあるひとつの光景を思い出した。
2008年、私が広島で迎えた最初の夏のことだった。
8月6日の朝、私はいつものように通勤していた。
駅からオフィスまで歩いているときに、私の前を歩いていた高齢のおじさんが足を止めた。
どうしたのかと思えば、目を瞑ったまま静かに佇んでいる。
8時15分だった。
このとき私は、ここが広島であるということを体感したのであった。

平和学習を終えた子どもたちは、昼頃に学校から帰ってきた。
家族で昼食を摂り、この平和がいつまでも続くことを願った。


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