カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.19(金) 「ハンティング・ナイフ」

村上春樹の書く太った女性は魅力的だ。
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では主人公の導き手として冒頭から登場する。

扉の外には廊下があり、廊下には女が立っていた。太った若い女で、ピンクのスーツを着込み、ピンクのハイヒールをはいていた。スーツは仕立ての良いつるつるとした生地で、彼女の顔もそれと同じくらいつるつるしていた。

ピンクのスーツにピンクのハイヒールを着こなす太った女の年齢が17歳というから驚きだ。

女はむっくりと太っていた。若くて美人なのだけれど、それにもかかわらず女は太っていた。若くて美しい女が太っているというのは、何かしら奇妙なものだった。私は彼女のうしろを歩きながら、彼女の首や腕や脚をずっと眺めていた。彼女の体には、まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに、たっぷりと肉がついていた。

主人公は女のうしろを歩きながら、太った女について思いをめぐらす。
3ページにも及ぶ描写が終わるころには、物語の主人公同様、読み手も太った女に対して好感を抱くことになる。
「読み手」と主語を大きくしてしまったが、少なくとも私に関してはそうだ。

彼女はシックな色合いのピンクのスーツの襟もとに白いスカーフを巻いていた。肉づきの良い両方の耳たぶには長方形の金のイヤリングがさがっていて、彼女が歩くにつれてそれが灯火信号みたいにちかちかと光った。全体的に見て、太っているわりに彼女の身のこなしは軽かった。もちろんかっちりとした下着か何かで効果的に見映えよくひきしめているのかもしれないけれど、しかしその可能性を考慮にいれても彼女の腰の振りかたはタイトで小気味よかった。それで私は彼女に好感を持った。彼女の太り方は私の好みに合っているようだった。

物語が進むと、主人公と太った女は寝るだ寝ないだの関係にまで進んでいく。
17歳の少女に性の対象として魅かれる35歳の主人公もどうかと思うが、ともかく太った女が魅力的に描かれている。

そして短編集『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている「ハンティング・ナイフ」にも太った女が登場する。

主人公は結婚6年目、29歳の男で妻とビーチリゾートのホテルに滞在している。
ホテル滞在最終日の前日、男は妻が昼寝をしているあいだに泳ぎに出る。
ビーチから50ストローク分泳いだところに浮かぶブイに到達すると、そこには「ブロンドの髪のみごとに太ったアメリカ人の女」がいた。

女の太り具合には不健康な印象はなかった、顔だちも悪くない。ただ肉がつきすぎているだけなのだ。磁石が鉄粉を吸い寄せるように、脂肪がごく自然に彼女の体にまつわりついてくるのだ。彼女の脂肪は耳のすぐ下からはじまり、なだらかなスロープを描いて肩に下り、そのまま腕のむくみへと直結していた。まるでミシュラン・タイヤの看板のタイヤ男みたいだった。彼女のそんな太り方は、僕に何かしら宿命的なものを想起させた。世の中に存在するあらゆる傾向はすべて宿命的な病なのだ。

なかなか見事な太りっぷりを思わせる、見事な書きぶりだ。
村上春樹の太った女への眼差しこそが宿命的だと思えてくる。
女とは世間話を少しするだけで、これ以上、女が登場することはない。
海で泳いでいたら、太った女と出会いちょっとしゃべったというだけのものだ。
話はその日の夜に移る。
夜中に目を覚ました男は、コテージの周りを一周し毎晩ウォッカトニックを飲むバーに行ってみる。
夜中なのでもちろん店は開いていないが、テーブルに同じコテージに宿泊中の車いすの青年をみつける。
話しているうちに、青年は男に見てほしいものがあると言って、ハンティングナイフを取り出す。
ナイフを手に取り、触っているうちに自分の中の暴力性の予感のようなものに気づく。
そこで昼間に会った、太った女のことをふと思い出す。

彼女の白くむくんだ肉体が、疲弊した雲のように空中に浮かんでいるような気がした。ブイや海や空やヘリコプターが遠近感を失わないように気をつけながら、静かにゆっくりと、ナイフを空中にすべらせた。

特に何がおこるわけでもない話だが、ぞくっとした感触が残る不思議な短編だ。
ここでは太った女が暴力の対象として描かれている。

性と暴力。のちの村上作品にもたびたび用いられるモチーフが、太った女として表象されているようで興味深い。


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