カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.15(月)『センス・オブ・ワンダーを探して』

娘のおしゃべりが止まらない。
一日中、なにかしゃべり続けている。
家族の誰かに話しかけるか、そうでないときは一人でぶつぶつ言っている。
AMラジオのようだ。
ミュート機能はついていないけど。
朝から晩までしゃべり続けて疲れはしないのだろうかと心配になるが、毎日元気そうなのでまあいいか。

眠りにつく直前までしゃべり続ける娘を寝かしつけ本を読む。
阿川佐和子氏と福岡伸一先生の対談本『センス・オブ・ワンダーを探して』の中に面白い部分をみつけた。
児童文学の「ドリトル先生」シリーズについて話しているところに、福岡先生は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の話題を持ち出す。
『世界の終わり~』は、「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」、ふたつの世界が交互に語られることで、物語が進行していく構造だ。
主人公の現実を描く「ハードボイルド・ワンダーランド」パートでは一人称「私」で語られ、同じ主人公の深層意識を描く「世界の終わり」パートでは「僕」で語られる。
この物語が翻訳されるときに、英語の場合、一人称がすべて「I」になるのでいかにして書き分けるかという問題が訳者のバーンバウム氏を直撃する。
バーンバウム氏は、あることを思いつく。
現実世界の「私」を書くときは時制を現在形で訳し、深層世界の「僕」を書くときは過去形で訳すというアイディアでこの困難を乗り越える。
なるほど!と思うわけだが、福岡先生は感心しつつもここでドリトル先生を持ち出してくる。
ドリトル先生シリーズの第二巻以降、語り手はスタビンズ君という少年になる。
正確にはスタビンズ君は七十いくつかのおじいさんになっていて、過去を回想するという形で語るという設定になっている。
「私はこう思いました」など、地の分は「私」と記述する一方、「僕は先生の助手になりたいんです」というような会話の部分はカギかっこを用いて「僕」と記述している。
つまり「私」と「僕」を使い分けて、時制の違いを表していると。
そしてこれがドリトル先生シリーズの魅力のひとつなんだと福岡先生は言う。

ドリトル先生の話があんなにも愉快で面白いのに、なぜどことなくもの哀しくて美しいのかというと、ドリトル先生もすでに死んでしまっているし、楽しい動物たちももういない。すべてが終わってしまった状況でスタビンズ君が物語を書いている。しかも、それが日本語でも、きちんと書き分けられているからだと思うんです。

ちなみにドリトル先生を訳したのは、井伏鱒二というのも面白い。
バーンバウム氏も井伏鱒二もすごいし、なにより『世界の終わり~』をドリトル先生につなげる福岡先生の着想回路に驚いてしまう。
しかしながら、村上春樹の描く無常観と、福岡先生の提唱する動的平衡は遠くないところでつながっているようにも思える。
そういう意味では、福岡先生が村上春樹をどう読むのか興味をそそられるところだ。


f:id:cafeaulait-ice:20230515225221j:image