カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.14(日) 「神の子どもたちはみな踊る」

昨年の7月にジョギングを始めて、もう10カ月になろうとしている。
3月に腰を痛めてしまい、この2カ月ほどは思うように走れなかったが、この頃やっと調子が戻ってきた。
60分10kmのコースを、同じペースを意識して走る。
どれだけ意識しても1km毎のラップタイムは、ばらつきが出る。
このバラツキをできる限りなくし、最初から最後まで同じペースで走ることを秘かな目標にしている。

走り初めの頃に距離もコースもいろいろと試して、一番走りやすいコースを確立しているが、ときどき違う道を走ってみることがある。
その中に割と大きな国道沿いのコースがあって、道沿いに野球のグラウンドがある。
区が管理しているグラウンドで、内野が天然芝のなかなか立派なグラウンドだ。
土曜や日曜の昼は、草野球のチームが試合や練習をしている。
私がジョギングをするのは夜なので、グラウンドには誰もいなくて静かだ。
私はこのグラウンドの横を通るときはペースを緩め、歩くことにしている。
そしてピッチャーマウンドがあるあたりを見て、見えない人影を探している。

村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』の表題作「神の子どもたちはみな踊る」に野球場が登場する。
出版社に勤務する主人公の善也は、シングルマザーの母親と二人で暮らしている。
父親は善也が生まれた時からいないが、母親からは耳たぶが欠けているという特徴だけを聞いたことがあった。
ある日、電車の中で善也は、耳たぶが欠けた男をみつけ後をつける。
男のあとを追ううちに野球場にたどり着く。
そして男を見失ってしまう。

このあたりのエピソードは、小川洋子の「槍投げの青年」によく似ている。
村上春樹ファンであることを公言している小川洋子のことだ。
「神の子~」からインスピレーションを得たとしてもおかしくはないだろう。

話を戻すと、男を見失った善也はピッチャーズ・マウンドにあがり、踊りだすという話だ。

どれくらいの時間踊り続けたのか、善也にはわからない。でも長い時間だ。わきの下が汗ばんでくるまで彼は踊った。それからふと、自分が踏みしめている大地の底に存在するもののことを思った。そこには深い闇の不吉な底鳴りがあり、欲望を運ぶ人知れぬ暗流があり、ぬるぬるとした虫たちの蠢きがあり、都市を瓦礫の山に変えてしまう地震の巣がある。それらもまた地球の律動を作りだしているものの一員なのだ。彼は踊るのをやめ、息を整えながら、底なしの穴をのぞき込むように、足元の地面を見おろした。

引用元:村上春樹神の子どもたちはみな踊る」(新潮社『神の子どもたちはみな踊る』所収)

ジョギングの羽休めとして、暗がりのグラウンドで踊る男の姿を探してみるがもちろんいない。
グラウンドを通り過ぎると、私は再び走り出す。
一歩一歩、大地の感触を確かめながらゴールを目指す。
今日もまた夜は更けていく。


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