カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.16(日) 『kotoba 51』


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子どもが家にいると、思ったように本を読めない。
三人の子どもが入れ代わり立ち代わり、自分の主張や疑問をこちらにぶつけてくる。
それが日中ずっと続く状況では、時間を取って本を読むことは難しい。
子どもたちがそれぞれの遊びに興じているあいだのすきをついて、ちょこちょこ読むことがせいぜいだ。
最近では子どもの年齢も上がって来たし、小学生くんたちが外に遊びに行く頻度も増えたこともあって、少しは余裕も出てきたがそれでもままならないことのほうが多い。
そうなると必然的に子どもたちが寝静まったあとがゴールデンタイムとなるが、その頃にはこちらも体力を消耗しており、本を読んでも頭に入ってこない。
なので、なんとか日中にせこせこすき間読書というのが、ここ数年の読書スタイルだ。
なかなか難しいものだ。

ところが最近ひとつ発見したことがある。
雑誌ならいける。
脳内のモードが違うのだろうか、雑誌ならば子どもに話しかけられ、中断しながらでもストレスなく読めることがわかった。
子どものいる(起きている)時間、いない時間による読み分けがいいのかもしれない。

不思議なことに雑誌の場合、音楽を聴きながらでも読める。
本の場合はそうはいかない。
歌が入ってくると歌詞が干渉して、読んでいる内容が入ってこない。
聞き取れない意味の分からない英語でもだめ。
インストゥルメンタルならなんとか大丈夫といったところ。
しかし雑誌の場合、日本語の歌が入っていても大丈夫なのだ。
これも脳の使っている部分が違うのだろうか。
幸い、未読の雑誌はたくさんある。
雑誌も買ったはいいものの、なんとなく後回しにされた結果、順番待ち状態のものが積みあがっているのだ。


今日はその中から、娘のレゴに付き合いながら『kotoba 51』を読を読んでいた。
特集はカズオ・イシグロ

生物学者福岡伸一先生の論考が面白かった。
福岡先生はカズオ・イシグロの描く記憶と自身の研究との接点を論じる。

記憶とは「絶えず変化と生成を繰り返す不可解な営み」であり、生命はそれと呼応するかのように「絶えず流転していくもの」です。

『kotoba 51』(集英社)より

福岡先生はこれを自身の「動的平衡」と同じであると説く。
記憶と生命の成り立ちがアナロジーとして成立しているというのが面白い。

福岡先生はかつてイシグロとの対談し、記憶に関するやりとりの中で両者が確認したのは、「人間の脳は、ビデオテープや光ディスクのように、記憶をそのまま保存できない」ことと、「脳の奥底に沈んだ記憶は、想起することで絶えず作り変えられ、変容しながら蘇る」ということだったそうだ。
生きることは記憶すること。
そんな風に思えてくる。


さらに、福岡先生は記憶をめぐる物語の書き手として村上春樹にも言及。
福岡先生もデビューからリアルタイムで読んできた村上ファンでもあり、村上とイシグロ、二人の小説に助けられる部分も多いそう。
科学の研究は、実験の失敗だったり成果が得られなかったりという「失望」から成り立っている。
失望の繰り返しの中で、研究を続けるための拠り所に「小説のような形式でしか表現できない部分」があるという。
記憶をたどり掘っていく二人の作家からは、多くの拠り所を受け取っていると。

生きていく上で何をよすがとするか、それは人それぞれであるが記憶もその大きな一つだ。
村上春樹の新刊を読んでいてちょうどそのようなことを思っていたのこともあり面白い論考だった。