カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.12(金) 「午後の最後の芝生」

昨日の日記で、人がなにかやっているところをただただぼーっとみているのが好きだと書いた。
私の好きな短編「槍投げの青年」にも触れた。

そして今日、たまたま空いてる時間に、某団体が練習しているところを見学した。
空は青く、緑は萌えて、風が気持ち良い。
心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくることなく、きれいに整備された芝生のグラウンドを眺めていた。

記憶と言うのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている。

引用元:村上春樹「午後の最後の芝生」(中央公論新社『中国行のスロウ・ボート』所収)

中学2年のときにできたサッカー同好会に入り、なぜかゴールキーパーに任命され、ゴールを守ることになった。
できたばかりの同好会には学校のグラウンドを使うことが許されなかったので、近所にある運動公園が私たちの練習場となった。
授業が終わるといったん家に帰り、部活道具を持って自転車で運動公園に行く。
サッカー同好会のほかに、ラグビー部も運動公園を練習場として使っていた。
同じグラウンドで、サッカー同好会はラグビー部を、ラグビー部はサッカー同好会を横目に見ながら練習に明け暮れていた。
私たちが使っていたのは、運動公園の言ってみればただのだだっ広い広場で、そこにはコートもゴールも何もない。
チームメイトは架空のゴールに向かってシュートを放ち、私は架空のゴールを守った。
ゴールはなかったけれど、良かった点もある。
芝生だったことだ。
飛び込んだり、滑り込んだり、体を張って攻撃を防ぐキーパーにとって、芝生はありがたかった。
他のチームではあまり見られないという点で、天然芝育ちのキーパーということが少し誇らしくもあった。
芝生は特別きれいに刈り揃えられていたわけではないけれど、全身で感じた心地よさを、ふわんとした感触をいまなお私の身体は憶えている。
夏場はきのこが生えていることもあった。


結婚する前の年に、友人3人と山に登った。
5月の連休、よく晴れた日だった。
彼らは小学校1年生からの付き合いの友人で、どういういきさつか忘れてしまったけれど、久しぶりに遠足でもするかという話になって地元の山に登った。
遠足と言うからには、弁当も必要ということで、各自、弁当箱におにぎりやおかずを詰め、おやつも用意し集合した。
2時間か3時間ほどかけて山頂にたどり着き、私たちは弁当を広げた。
私は翌年に結婚することを伝えた。
祝い善を食べるように、弁当を食べた。
そして下山した。
久しぶりに登った標高600メートルほどの山は、なまった体をへとへとにさせるにはじゅうぶんだった。
下山して、疲れ切った体を休めるために山のふもとにある広場に行った。
芝生の広場で四人並んで昼寝をした。
芝の匂いと吹き抜ける風、山登りの達成感と疲労感、これ以上にない昼寝だった。


村上春樹の短編「午後の最後の芝生」が好きなのは、このような芝生原体験とでもいうようなものがあるからなのかもしれない。
芝刈りのアルバイトをしていた主人公「僕」の、最後の芝刈りの一日を描いた小説だ。
ストーリーらしいストーリーはないけれども不思議と魅入られてしまう作品だ。

とにかく僕は芝を刈りつづけた。大抵の庭の芝はたっぷりと伸びている。まるで草むらみたいだ。芝が伸びていればいるほど、やりがいはあった。仕事が終わったあとで、庭の印象ががらりと変わってしまうのだ。これはすごく素敵な感じだ。まるで厚い雲がさっとひいて、太陽の光があたりに充ちたような感じだ。

引用元:村上春樹「午後の最後の芝生」(中央公論新社『中国行のスロウ・ボート』所収)

私は芝生のグラウンドをぼーっと眺めながら、小説の「僕」が刈ったのが何なのかということについて少しだけ思いを馳せた。


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