カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.2(火) ネギを刻む、あるいは本を読むこと

ネギが好きだ。
特に青ネギがいい。
ラーメン屋では、あればネギラーメンを注文するし、可能ならトッピングで増量する。
丸亀製麺でもたっぷりのせたいところだが、会計時にこんもり盛られた丼を見られるのは少し後ろめたいので、ほどほどにしている。
その点、私の地元のうどんチェーン店ウエストでは、テーブルごとにネギが設置されているので心置きなく盛ることができる。
あくまでも節度のある範囲でということだが。
ネギを食べると頭が良くなるという言い伝えがあるが、私に関してはいっこうにその気配はない。
ネギによって生活の質が向上していることは間違いないけれども。
安いもんだ。
ネギといえば、ひとつ思い出した。
私がまだ高校生の頃、8つ上の従姉が結婚し、のちに子どもを出産した。
その子がまだ幼児の頃、ハマってるごはんがあると聞いた。
通称みどりごはん。
刻んだネギをごはんの上にたっぷりとのせ、しょうゆを少し垂らしただけのごはんだ。
3歳だか4歳くらいの従姉の息子が好んでそればかり食べているという。
親戚の集まりでそれを聞いた一同は驚きつつも、いっちょやってみるかということになったらしい。
みんなでごはんにねぎをのっけて、しょうゆをかけて食べてみたところ、いや、これは美味いじゃないかとみどりごはんに湧いたらしい。
当時、実家に帰省した際、おまえも食べてみなさいと提供されたみどりごはんを食べてみたところ、確かにそれは美味しいのであった。
ネギのシャキシャキした食感と、ごはんのふっくらした食感が絶妙にマッチし、香ばしいしょうゆの香りが食欲をそそり、あっという間に平らげてしまった。
みどりごはんというネーミングもあいまって、親戚の中ではいまだに語り継がれる逸話となった。
思えば私のネギの芽ばえ(ネギだけに)も、そのころにあったのかもしれない。
何を食べるにしてもネギをかけると美味しくなるという学びを、いまも日々実践している。
ちなみに言うと、その従姉の息子は大学生になり旧帝大の国立大学に通っている。
ネギを食べると頭がよくなるのは本当なのかもしれない。

だからというわけではないが、我が家の冷蔵庫には刻んだ青ネギが常備されているし、刻まれる前のネギもスタンバイしている。
切らさないように注意を払っているが、消費の速さに、気を抜くとなくなっていることがしばしばある。
そんな時は少しばかり不安になる。
そして八百屋へ買いに行くのである。

そんなネギとの生活についてだが、食べるのはもとよりネギを刻む行為も好きなことに最近気がついた。
むしろ、ネギを刻むために食べているのではないかと思ってしまうくらいだ。
毎日のように刻むネギは、生活を営むことの豊かさを実感させてくれる。
くり返される日常の中にいかに喜びを見出すか。
ネギを刻むとは、日常生活の比喩でもある。
と思ってしまうくらいには、とんとんとんとんとリズミカルな行為に潜む中毒性に侵されている。

あるとき刻みたてのネギをみそ汁に入れながら、妻に言われたことがある。
「大きめに切るのが好きなん?」と。
みそ汁の水面を漂うネギをみてみる。
意識していなかったが、確かに少し大きい気がした。
そこで気づいたのは、いかに自分がネギと向き合いきれていなかったのかという事実だ。
なんのことはない、当時の私は勢いにまかせバババと刻んでいたのだ。
つまり適当だったということだ。
ネギの切り方が味に及ぼす影響はよくわからないが、それからはできるだけ細かく大きさがそろうように意識しながら切るようになった。
そうなると自ずと、切るスピードはゆっくりになる。
ひと刻みひと刻みを嚙みしめるように、あるいは愛でるように包丁を入れる。
正確なリズムを刻む打楽器奏者のように。
そうすることで見えてきたのは、ネギを刻む行為がただの調理の一工程ではなく、自分をみつめる行為でもあるということだ。
ストン、ストン、ストン、ストンと適度に調整された心地良いリズムが内省を誘う。
まな板は思考のキャンバスとなり、ネギのひとつぶひとつぶはその素材となる。
ああでもない、こうでもないと気がつけば考えをめぐらせているのである。
精神が安定しているときはネギもきれいに切り揃うし、逆に乱れているときバラバラだ。
その日のコンディションを測るバロメーターとしても機能するネギの万能さに、感心を覚える今日このごろだ。

 

ところで、当日記は読書日記なので、そろそろ読書についても語らねばなるまい。
その日に読んだものを起点に何か書くのが基本コンセプトであるが、今日は思いもよらずネギ語りが過ぎたようだ。
なので、読んだ本については明日に譲るとして、ここでは本の読み方について少し書いてみたい。


私の読み方はとにかく愚直に読む、これにつきる。
特に文学作品を好んで読むこともあって、できるだけゆっくり読むことを指向している。
速読ではないにしても、それなりに本を読みなれていればスピードを上げて読むこともできるはできる。
しかしそのときのいわゆる歩留まりは低くなる。
文字だけ追って、全然読めていない状況だ。
なので、できるだけ多くのことを読み取ろうと思うと、自然とスピードは落ちるし、丁寧になる。
自分の身体に沁みついた心地よいリズムを意識して読む。
そのリズムは物語の中へ自分を引き入れてくれる。
本を読む行為は、作者との対話でありながら、自己との対話でもある。
一文一文が、意味を持って自分に問いかけてくる。
文章を読みながら同時に、本の世界に投影した自分を読んでいる。
本を読む時間は、考える時間でもあるのだ。
だからスピードをあげる必要はないのだ。
自分のペースでゆっくり読めばいいのだ。
できるだけ丁寧に。
ネギを刻むように。

そうなのだ。
本を読むということは、ネギを刻むことに似ている。
忙しない日々の中で、自分と向き合う自分だけの時間。
そこには発見があり、驚きがあり、感動がある。
ささやかなものかもしれないけれど、確かな生の実感を与えてくれる。
心地の良いリズムに身を委ね、今日も本を読みネギを刻む。


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