カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.3(水)『ホテル・アイリス』

小説を読むときに、よほど奇特な趣味の持ち主でもない限り、途中から読み始める人はいないだろう。
最初の1行を読み、2行目を読み、3行、4行と読み進めていくことになる。
読者を物語の世界へ没入させていくために、冒頭が果たす役割は大きい。
ディヴィット・ロッジは『小説の技巧』(白水社)のなかで、小説の冒頭を「われわれが住む現実世界と、小説家の想像力によって生み出された世界とを分ける敷居」と定義している。
敷居を跨げるか跨げないかは冒頭にかかっている。

今日私が跨いだ敷居は小川洋子の『ホテル・アイリス』だ。
ホテルアイリスの202号室から飛び出した半裸の女性に、部屋の中から男が声をかける場面で始まる。
その声の描写に読者は(というか私は)引きずり込まれる。

男の声がわたしたちの間をまっすぐ通り抜けていった。ざわめきが消えた。深みのある太い声だった。苛立ちも怒りも含まれていなかった。むしろ思慮深い響きをたたえていた。チェロかホルンか、そんな楽器が一瞬だけ鳴ったような錯覚に陥った

さらに続く。

こんな美しい響きを持つ命令を聞いたことがない、とわたしは思った。冷静で、堂々として、ゆるぎがない。

男はなんと言ったのか。

「黙れ、売女」だ。

思慮深い響きをたたえた深みのある太い声で放たれた男のセリフとのギャップに、もうこの物語から逃れられない運命なのだと悟る。
敷居を跨ぐなと言われても、それは無理からぬことだろう。

一言で言うと、「これな、おっさんが『黙れ、売女』ってめっちゃええ声で言うところから始まる話やねん」だ。


何かを説明するとき、とくに短い言葉で簡単にわかりやすく伝えようとするとき、大阪のおっちゃんになりきるというのは有効な技だと思う。
おっちゃんが若い衆になにか伝える場面を想像しながら、「これなぁ、」で始めて見ると案外うまくいく。
ちなみにこれをするときの私は、実在する一人のおっちゃんをモデルにしている。
まあそんなことはどうでもいいことだけれど。

ところでな、今日からゴールデンウィークやんか。
うちの息子二人がマリオの映画観たい言うからな、ほな連れてったるわー思っててんけどな、嫁はんも観たい言うからな、じゃあ三人で行ってきーなゆうてな、わしと娘は留守番しててん。
昼時になったらお腹も減って来るしやなー、マクドでもいくかーゆうてな、近所のマクド行ってん。
娘、ポテト好きやねん。
ポテトしか食べへんねん。
近所のフードコートにマクドあるからそこ行ってん。
丸亀もあるから、おとうちゃんはうどん食べますわーいうて、列ぎょうさん並んでるやろ?
その間にアプリでポテトだけ注文しとくねん。
便利やなー、最近のマクドは。
ほんでうどん頼んで、てんぷら取ってネギと天かすもかけてやなあ、会計したらペコちゃんのキャンディもらえるねん、子連れの特権でな。
それもろて、会計したころにはもうポテトもできとんねん。
便利やなー最近のマクドは。
ほんで、うどんとポテトふたりで食べてやなあ、帰ろかー言うて歩いてたらあんねんなあ、駄菓子屋が。
娘が寄りたい言うねん。
なんかしらんけど10円か20円のスティックみたいなゼリー買いよんねん。好っきゃねんなあ。
ゼリー2つか3つかごにいれてやなあ、次に取ったんがペコちゃんのキャンディやねん。
さっきも食べとったがなそれ。
丸亀のあれで。
帰ったらさっそく食べとったわ、ゼリーとキャンディ。
おいしい、おいしい、言うてな。
まあそんな一日やったわ。


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