カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.29(土) 『学校するからだ』

晴耕雨読
雨の日は本を読む。

「はじめに」を読んだだけで、傑作だと確信めいた予感を得られる本がある。
そんな本の見つけた時は単純にうれしい。
むしろその感覚を得るために、日々、本を読み続けているんじゃないかとさえ思う。
晴れの日も、雨の日も。

今日読み始めた『学校するからだ』(矢野利裕著、晶文社)は間違いなく面白い。
ちなみに晶文社の本は他の出版社に比して当たりの確率が段違いで高い。
信頼のおけるとはこのようなレーベルを指すのだろう。


さて、本書は高校教員の著者が、学校で起きたエピソードをもうひとつの肩書、批評家としての立場から語るノンフィクションである。
そこで語られるのは、何気ない学校の風景の中に溢れるマジカルな瞬間ということだ。
「はじめに」では、先生と生徒の間にある複雑な「共同作業」を例として挙げている。
著者はサッカー部の顧問を務めている。
いつもの風景として、グラウンドで集合した部員たちに、その日の練習や今後の予定について話す場面でのことだ。
著者が話し終えると部員たちは「した!」と返事をする。
このとき、顧問の著者含めみんな、「した!」のタイミングをそれとなく伺っているところに面白さがあるという。
顧問の方は、この「した!」を誘導すべく、伝える内容を一通り言った後、「はい以上です」という意味で、「h-ぁいじょうsh」と発しているし、部員たちの方も、「した!」という直前に、「shhh(無声音-ス)」を忍ばせている人が一人いると。
みんなはこの「shhh」を感じ取って、タイミングを合わせていると気づく。
著者は顧問としての威厳を示すべく、「した!」を誘導していたつもりだったが、実はこのような「共同作業」のもとに成り立っていたというエピソードだ。

ただ、僕が興味深く思えるのは、このようないっけん一方的で抑圧的に思える光景も、身体レヴェルまで含めると教員と生徒双方の協力によって成立している、ということだ。生徒と教員の関係性はそのような身体レヴェルまで含んだものとして育まれている。

引用元:『学校するからだ』(矢野利裕著、晶文社)

このような学校現場での経験を通じて、著者は身体レヴェルのコミュニケーションにこれまで以上に意識的になったと述べる。
本書は、学校での実体験にもとづいたエピソードを、批評の実践として紹介するという内容だということが「はじめに」に書かれている。

私が得た確信への答え合わせという意味でも楽しみな一冊だ。
f:id:cafeaulait-ice:20230430065729j:image