カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.24(月) 内田伸子『想像力』、村上龍『69』

試験のアドバイスに、カレーのレシピを書いて提出せよというものがある。
記述式の問題に対する回答を導き出せないときに、何も書かないよりはまし、部分点でももらえれば御の字、洒落のわかる先生であれば丸をもらえるかもしれない。
諦めと期待を満たした助言だ。

大学生の頃、心理学を専攻していた先輩J氏はこの助言に従い、お手上げの問題にカレーの作り方を書き、晴れて単位を獲得した。
コツは美味しいカレーに仕上げることだと言っていた。
その夜、教授の夕食はさぞ美味しいカレーだったのだろう。

私もいつか困ったことがあれば実行してみようと思っていた。
あれは大学二回生の頃だ(私の通っていた大学の地方では学年を「年」ではなく、「回」でカウントしていた)。

文学部の「芸術論」という授業を履修した。
ちなみに私は社会学部だったので、他学部の自由科目ということになる。
文学部の一つ上の学年の先輩女史、ふたりと共に履修した授業だ。
ふたりともタイプは違うが魅力的な女性だった。
なんと恵まれていたことか!!
芸術の分野に明るかったふたりに比べて、さっぱりの私はまるでちんぷんかんぷんだった。
担当の教授もクセの強さに定評があり、私なんぞが太刀打ちできる授業ではなかった。
私にとっては授業そのものよりも、そのふたりと過ごす90分間という至福の時間が重要であった。
たとえそれがなんの授業であれ。
たまたま「芸術論」だっただけのことだ。

授業によって試験の有無、レポートの有無、その他いろいろな評価のバリエーションがあったはずだ。
「芸術論」では試験はなく、何度か提出するレポートが評価の対象だった。

そのうちのひとつに「サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』について論じなさい。その際、適宜図表も用いること」というレポートの課題が出た。
ああ、カレーの出番だと直感が私にそう告げた。
私は課題に取り掛かった。
いくら美味しいカレーの作り方を書いても、クセの強い教授のことだ、一筋縄ではいくまいとアレンジを加えることにした。
作品タイトルの『しあわせの日々』になぞらえ、幸せの日々を送るための家を書くことにした。
アレンジどころではない、急転換だ。
王政復古の大号令だ。知らんけど。

私はキャンバスいっぱいに、自分の従兄の家をモデルにした4LDKのマンションの間取り図を書いた。
なぜなら図表を用いる必要があったから。
私にできるのはこれしかないと思った。
できるだけ丁寧に書いた。
定規を使って線を引いた。
そこで暮らす家族を思い浮かべながら、しあわせな日々を送る従兄を想像しながら。
レポートの論旨はこうだ。

いま、大学生の私は六畳一間の部屋で一人暮らしをしている。
やがて大学を卒業すればこの部屋を出ていくだろう。
仕事を始め、今よりも少し広い部屋を借りることになる。
何年か働いて結婚する時がくるかもしれない。
そうするとパートナーとの共同生活にふさわしい部屋を探すだろう。
2DKか2LDKか、経済状況も鑑みながら適度なところで家庭を築く。
子どもをもつことになるかもしれない。
家を買うかもしれない。
そこでどんな生活が待っているかはわからないが、この時点でできる限りの想像力を働かせ、4LDKの部屋をこしらえたので、別紙に添付する。
ここでの生活を「しあわせな日々」にしていくための努力は惜しまない。

こうして提出したレポートで、私は「芸術論」の2単位を無事取得した。

想像力の勝利だった。

想像力が権力を奪う。

そのころ読んだ村上龍の小説『69』に出てきた一文だ。
権力を奪うことにはならなかったのかもしれないが、想像力によってアカデミアに小さな勝利を収めた。
私が手にしたものは、単位2以上に大きなものだった。

内田伸子の『想像力』によれば、想像力は認識の営みのすべての過程に絡む重要な能力ということだ。
想像力は人に「生きる力」を与えてくれ、想像力の働きによって人は意味の世界を生きるようになると論じている。

 

あれから十数年が経過した。
私は生きている。
あのとき描いた間取りとは違うものの、概ね似たような部屋に住み、妻がいて三人の子どもがいる。
いろいろと大変なこともあるけれど、しあわせな日々を送っている。
サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』については、いまだにどんな話なのかよくわかっていないので、何も語り得ない。
ただわかるのは、今日も子どもたちのために玉子焼きを焼くということだ。


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