カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.23(日) 『想像力』

公園で本を読んだ。
青空の下、ベンチに座り、新緑の風を感じながらの読書もまた一興だ。
と、いかにも優雅な休日を過ごした書きぶりだがそうでもない。
公園への付き添いの手持無沙汰対策としての読書。
実際はこんなところだ。

小学校1年の次男が公園に行きたいからついて来てくれと言う。
小学校が定めたルールにより、1~3年生のあいだは親同伴でなければ自転車にのることができない。
晴れて4年生となり、今年、この縛りから解放された長男は、友だちと意味もなく近所をぐるぐる自転車で徘徊しているらしい。
長男とその友達と、自転車で公園に一緒に行きたい次男に付き添いのお願いをされたという次第だ。

4人で連れだって公園へ行く。
公園に着いたら、子どもたちは遊び始める。
私はただの付き添いのおじさんとしてベンチに腰を下ろす。
すべり台とぶらんこと砂場、トイレといくつかのベンチがあるだけで、あとは広場というシンプルな構成の公園だ。
50m四方の公園にはたくさんの小学生たちがいて、元気に走り回っている。
野球、サッカー、縄跳び、ボール当てゲーム、思い思いの時間を過ごしている。
小さな子どもの親子連れも何組かいる。
ちゃんと数えてはいないが、ざっとみて50~60人はいると思う。
賑やかな公園で、ときおり子どもたちの様子を伺いながら読書に耽った。

内田伸子著『想像力』によれば、人が何かをイメージするとき、経験による知覚を一度解体した諸要素を、新しい文脈に合わせ選択・修正し、連想の働きによってつなげ統合することでぼんやりとした表象が浮かんでくるということらしい。
さらにその表象を言葉やからだによって表現する過程で、また加工や修正が生じ、表象は洗練され具体的な像として自覚できるようになるそうだ。
現実から想像へ、想像から現実へというなかなかに複雑な循環過程を経て表現されるとき、もとのかたちとは似ても似つかないものになるのだそうだ。

私が書いているこの文章も、そのような過程を経て記されていると思うとおもしろい。
今日公園で見た、聞いたできごとを一度諸要素に分解し、日記の文章として表現するための文脈に合わせ選び取ったものを連想・統合し、書く過程においてはっきりとしたイメージとして思い浮かべている、と。
この日記は今日見た風景がありのまま表現されているのではなく、なんらかの分解・統合という過程を経たものであるらしい。

傍からみればただの付き添いのおじさんも、この日記を書く上ではその実、複雑な分解・統合おじさんであったということだ。



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