長男の授業参観に行く。
妻と現地集合。
教室はプレハブ校舎の2階、靴箱の場所がわからない。
1組と2組の靴箱はあったけど、3組の靴箱がない。
もしや2階にあるのかと思い、2階に行ってみる。
ない。
土足であがってしまった。
私だけじゃなかった。
もう一人のお母さんも土足で靴箱を探していた。
ふたりでわからないですねーと言いながら1組と2組の靴箱に行ってみた。
妻がいた。
「ここやで」と教えてくれた。
1組と2組の奥に3組の靴箱はあった。
プレハブどうなってんねん。
あんなシンプルなのにラビリンスだった。
社会科の授業を参観。
ゴミの分別についてやってた。
電子黒板があったり、タブレット使ったりしていた。
授業の進行も素晴らしかった。
日本の公教育はオワコンだなんて言われたりもするが、結局それは受け手の問題なのではないかと思う。
教育を受ける側がどういう意識で、その教育から何を学び取るか、それ次第なのではないか。
そんなことを思うのであった。
参観が終わって、再び妻と別れる。
現地集合、現地解散。
家に帰って、ただいま、おかえり。
今日も何かしら読んだ。
『差し出し方の教室』幅允孝
p243~p315。読了。
病院と保育園、それぞれでの本の差し出し方の章。
面白かった部分を引用する。
個人的に感じていることですが、読書は好きになるものというよりも、慣れと技術による部分が大きいのではないかと思います。ある程度、習慣化すればテキストを読んで、字面を通じて頭の中にイメージが広がるおもしろさを味わえる。ひょっとしたら、テレビや映画よりも、よっぽど視覚的な喜びがあるメディアかもしれません。
まず、慣れと技術という点に関して同意だ。
幼少期の読書体験が必要と言われる所以は、この「慣れ」を獲得するためだろう。
特にフィクション、物語に関しては幼少期から慣れ親しんでいる方が、大人になってからも抵抗なく読めるというのは、私の体感からしてもそうだと思っている。
本は読むけど小説は読めないという人は、特に幼少期の「慣れ」の部分が影響しているように思う。
そして、本が視覚的なメディアという点が面白い。
そう言われると確かに、字面を追いながら私たちが(少なくとも私が)見ているのは頭の中のイメージだ。
本を読むときに、私たちは何を見ているのか。
面白い問いにつながってくるなと思う。
以下は割愛する。