カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.6.15(木) 授業参観。『差し出し方の教室』

長男の授業参観に行く。
妻と現地集合。
教室はプレハブ校舎の2階、靴箱の場所がわからない。
1組と2組の靴箱はあったけど、3組の靴箱がない。
もしや2階にあるのかと思い、2階に行ってみる。
ない。
土足であがってしまった。
私だけじゃなかった。
もう一人のお母さんも土足で靴箱を探していた。
ふたりでわからないですねーと言いながら1組と2組の靴箱に行ってみた。
妻がいた。
「ここやで」と教えてくれた。
1組と2組の奥に3組の靴箱はあった。
プレハブどうなってんねん。
あんなシンプルなのにラビリンスだった。

社会科の授業を参観。
ゴミの分別についてやってた。
電子黒板があったり、タブレット使ったりしていた。
授業の進行も素晴らしかった。
日本の公教育はオワコンだなんて言われたりもするが、結局それは受け手の問題なのではないかと思う。
教育を受ける側がどういう意識で、その教育から何を学び取るか、それ次第なのではないか。
そんなことを思うのであった。
参観が終わって、再び妻と別れる。
現地集合、現地解散。
家に帰って、ただいま、おかえり。

今日も何かしら読んだ。

『差し出し方の教室』幅允孝
p243~p315。読了。
病院と保育園、それぞれでの本の差し出し方の章。
面白かった部分を引用する。 

 個人的に感じていることですが、読書は好きになるものというよりも、慣れと技術による部分が大きいのではないかと思います。ある程度、習慣化すればテキストを読んで、字面を通じて頭の中にイメージが広がるおもしろさを味わえる。ひょっとしたら、テレビや映画よりも、よっぽど視覚的な喜びがあるメディアかもしれません。

まず、慣れと技術という点に関して同意だ。
幼少期の読書体験が必要と言われる所以は、この「慣れ」を獲得するためだろう。
特にフィクション、物語に関しては幼少期から慣れ親しんでいる方が、大人になってからも抵抗なく読めるというのは、私の体感からしてもそうだと思っている。
本は読むけど小説は読めないという人は、特に幼少期の「慣れ」の部分が影響しているように思う。
そして、本が視覚的なメディアという点が面白い。
そう言われると確かに、字面を追いながら私たちが(少なくとも私が)見ているのは頭の中のイメージだ。
本を読むときに、私たちは何を見ているのか。
面白い問いにつながってくるなと思う。

以下は割愛する。


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