カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.3.31(金)『おいしいごはんが食べられますように』

本を読むとき、カバーは外すことにしている。
ページをめくったり、ぱらぱらするときに邪魔なのでカバーも帯も外すのだ。
読み終えた本、積読状態にある本にはカバーがかかった状態で並んでいる。
逆に言いうと、カバーがかかっていない本は読書中の本ということになるのでパッとみでもわかりやすい。
本を読み始めるためにカバーを外すときの高揚は、服を脱がせるときのものとどこか似ている。
本を読むことと性はどこかでつながっているのかもしれない。

先日、高瀬隼子の『水たまりで息をする』を読み終えた。
社会から外れていくことの苦しさが妙にリアルに感じられる気がした。

そして今日、『おいしいごはんが食べられますように』を読み始めた。
もちろん最初にカバーを外した。
出てきたのはドーナツだった。

またしてもドーナツだ。
3日連続でドーナツに言及することとなった。
何度も何度も同じ一日を繰り返すタイムリープものみたいだ。
その形状から言っても、ドーナツとは連環の比喩なのかもしれない。

 

そういうわけで、昨日書くはずだったが話が逸れてしまって書けなかったことを書こう。
エッセイ『おいしいアンソロジー おやつ』の中で、ドーナツについて村上春樹が書いているが、もう一人ドーナツを題材に書いてる人がいる。
歌人穂村弘だ。

 

友人たちと数人でミスタードーナツに行った時のエピソードが紹介される。
それぞれが好みのドーナツを注文するなか、穂村弘はD-ポップを注文する。
小さな球状のものがいくつも入っているあれだ。
すると女友だちに「ださー」と言われ、穂村弘は動揺する。

「いや、だってこれ、ひとつでいろんな味が楽しめるじゃん」
「だから」と彼女はきっぱり云った。「それがださいんだよ。ヒトツデイロンナアジガタノシメル」
えええ? それがださい……。わからない。あからないけど、なんか、わかるような気もする。

そこからさらに自分の「ダサさ」について展開される。
D-ポップがださいかどうかは私には正直わからない。
わからないという点では私もダサいのかもしれない。
しかしもっと気になる部分をみつけた。
穂村弘はそれ以来、一度もD-ポップを食べていないそうだ。
そのかわりに、「ハニーチュロなどのかっこいいドーナツを食べるようになった」とある。
え。ハニーチュロってかっこいいっけ?
ハニーチュロをかっこいいと感じるその感覚こそがダサいのではないかと思うのだがどうだろう?

そういえばハニーチュロもちょっとねじれていて、やっぱりドーナツは時空の歪みを表現した食べものなんじゃないかと思えてきた。