カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.17(月) おくだけとおせんぼ、『街とその不確かな壁』


高い壁に囲まれた街が村上春樹の新刊の舞台なら、低い壁に隔てられたスペースが我が家のキッチンだ。
おくだけとおせんぼの話である。
小さな子どもが入ると危険だったり、荒らされる可能性があるスペースの前に設置する育児アイテムだ。
その名の通り、置くだけでとおせんぼになる自立型のゲート。
我が家ではカウンターキッチンの入り口に設置し、娘の侵入を防ぐのに大いに役立った。
このたび、そのおくだけとおせんぼを撤去した。
娘も3歳になり幼稚園に通い出したこともあり、ひとつのタイミングではないかと思った次第だ。
撤去して半日、いまのところ問題はなさそうだ。
なにより、キッチンに行くたびに高さ60cmのゲートをまたいでいた、その動作がなくなったおかげですこぶる快適になった。
いわゆるひとつのQOL爆上がり状態だ。
ゲートを撤去する。
ただそれだけのことがもたらす便益の大きさに驚いている。
門を開放したことによって、いい風が入ってくるようになったのだ。
現実的にも比喩的にも。

そう考えると、閉じられた世界のあり方には疑問符が付く。
かつて村上春樹は小説と宗教はやっていることは同じだと言っていた。
物語を提示し、人々を魅了し、その世界の中に取り込むという点で構造は同じなのだと。
開かれているか閉じているかの違いがあるだけで、似ているものなのだと。

誤解を恐れずにいえば、あらゆる宗教は基本的な成り立ちにおいて物語であり、フィクションである。そして多くの局面において物語は——いわばホワイト・マジックとして——他には類を見ない強い治癒力を発揮する。それは我々が優れた小説を読むときにしばしば体験していることでもある。一冊の小説が、一行の言葉が、僕らの傷を癒し、魂を救ってくれる。しかし言うまでもなく、フィクションは常に現実と峻別されなくてはならない。ある場合にフィクションは我々の実在を深く吞み込んでしまう。

村上春樹『雑文集』(新潮社)より

小説の場合、どれだけその物語に没頭し深く入り込んだとしても、ひとたび本を閉じればそこにはいつもの現実がある。物語を読むことは、フィクションと現実とのあいだの線を引くことでもある。
その一線を引くことができない危うさも宗教は内包している点で、決定的な違いがある。
ひとたび閉じられた世界へ入り込んでしまうことの危うさ、そして開かれていることの重要性を、私はおくだけとおせんぼから学び取ったと言っても過言ではないだろう。

少しずつ読み進めている『街とその不確かな壁』も第一部の終盤になった。
主人公は高い壁に囲まれた街にどう決着をつけるのか、物語は動きだした。