カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.15(土) 『雑文集』『街とその不確かな壁』

丸亀製麺の天ぷらトッピングのラインナップに、ししゃもが追加されていた。
今日はぶっかけうどんに、ししゃもとげその天ぷらを追加して食べた。
丸亀製麺の釜揚げうどんをみると、『進撃の巨人』を思い浮かべてしまう。
壁に囲まれた世界。
進撃の巨人』を読んだことはないので、適当に想像してるだけだけれども。

村上春樹の新刊『街とその不確かな壁』も壁に囲まれた街が舞台となっている。
村上春樹進撃の巨人を知っているだろうか。
アニメを配信でみたりすることはあるのだろうか。
なにかのドラマをネットフリックスでみたというようなことを、なにかの媒体で言っていたような気はする。
何から何まで曖昧で適当な記憶だ。
信頼できない語り手として今日も日記を更新している。

『街とその不確かな壁』を少し読み進めた。
今日は「壁」の話をしよう。
村上作品にはたびたび「壁」が登場する。
とりわけ本作はタイトルに「壁」を冠していることからも、重要なモチーフであることは間違いないだろう。
本作にでてくる「街」は高い壁に囲まれている。
街を囲む壁には門がひとつしかなくて、そこには門衛がいる。

「もしこの世界に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ。誰にもこの壁を越えることはできない。誰にもこの壁を壊すことはできない」、門衛はそう断言した。

『街とその不確かな壁』(新潮社)より

誰にも壊すことができない完璧なものとして壁は存在している。

村上はデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭で「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」と書いた。
文章に対するこだわりの強い村上の小説家としての最初の一文は、完璧への挑戦の宣言とも言える。
デビューから40年以上経ったいま、完璧なものとして立ちはだかっている誰にも越えることができない壁を、村上は乗り越えようとしているのかもしれない。

村上春樹の「壁」で想起するものに、エルサレム賞受賞のスピーチがある。
そのスピーチを書き起こしたものが『雑文集』のなかに「壁と卵」と題されて収録されているので、引用したい。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

『雑文集』(新潮社)より

村上は、人間を、ひとりひとりがかけがえのないひとつの魂とそれをくるむ脆い殻を持った「卵」に、その人々の前にたちはだかる大きなシステムを「壁」に喩えている。
そして自身が小説を書く理由として、個人の魂の尊厳に光を当てるためで、「我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす」のが物語の役割だと述べている。

「壁と卵」は村上の根幹をなす考え方だ。

そんなことを思い起こしながら読み進めると、出て来るのだ。
「卵」が。
「街」にはひとつ図書館があって、 書庫には書籍の代わりに古い夢がならんでいる。
古い夢を読む〈夢読み〉が「私」(街パートでの主人公は「私」)に課せられた役割だ。
そしてその古い夢は卵のようなかたちをしている。

「何はともあれ、それらはとても注意深く扱われなくてはならない。希少な生物の卵を扱うのと同じように。

『街とその不確かな壁』(新潮社)より

ひとつの卵として壁を乗り越えようとする、村上の総決算的な意味合いをもつ作品なのかもしれない。