カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.6(木) 『ワインズバーグ、オハイオ』


群像劇が好きだ。
登場人物がたくさんいて、いろいろなストーリーが語られて、それがどこかで交わったり交わらなかったり。
複雑に絡み合ったいくつかの線が徐々にひとつになり最後は大団円みたいなすっきりカタルシス系もいいし、それぞれの話が特に交わることなく淡々とすすんでいく自律分散型もいい。


シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ、オハイオ』はどちらかと言えば後者のタイプで、津村記久子は『やりなおし世界文学』で同作品を「それぞれが別の方向を向いている話」と評している。
この時点で、私好みなのは間違いないなさそうなのだけれど、さらに「これらの二十二篇は、人間の普遍的な痛みのカタログである。どれかはきっと、心当たりがあるはずだ」ときた。
そそられないことがあろうか。
というわけで読んでみることにした。
幸いにも妻の本棚に『ワインズバーグ、オハイオ』をみつけた。

『ワインズバーグ、オハイオ』はオハイオ州の架空の町ワインズバーグを舞台にした短編集で、そこで暮らす人々のことが語られる。

さて、最初の一編を読み終えて、名作であることを確信した。
「いびつなものたちの書」と題されたこの話は、老作家が大工にベッドの高さを高くしてもらうところから始まる。
窓の高さまで高くしたベッドに横たわり夢うつつの作家の前に、人々の姿が現れ通り過ぎていく。
その姿はみないびつな者たちで、作家は彼らのことを書くという話だ。

 

冒頭のこの一編はひとつの物語であると同時に、この本における序文、これから繰り広げられる語りの宣言でもあるのだろう。
私がこれから書くのは、いびつな人たちの話なのだと。

いびつな者たちのなかには、彼の心に深い印象を残したものがいて、彼はそれを描きたかった。

 

老作家が最終的に書きあげた「いびつな者たちの書」は出版されることはなかったが、語り手の心に深く残り続ける。
そこには次のようなことが書かれていた。

世界がまだ若かった始まりの頃、数知れぬ考えがあったが、真理といったものはなかった。人間は一人でいくつもの真理を作り、それぞれの真理が多くの漠然とした考えの集まりだった。こうした真理が世界の至るところにあり、どれもみんな美しかった。

 

世界の至るところにある、どれもみんな美しい痛みのカタログ、楽しみだ。