カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.27(土) 衣食住の外

中丸くんの話を妻としてたら、人間の創作にかける思いみたいな話になった。
妻は「私は衣食住以外のことが好きなのだ」だと話し始めた。
曰く、生活に必要のないもの、なくても困らないものが好きであり、漫画や小説、絵画などの芸術はだいたいこれに該当する。
だから惹かれるのだと。
衣食住に関するものは、ある種、本能からくる欲求であり、生きていれば自然と沸き起こるもので、一方、先に挙げた芸術は生存上の本能からくるものではない。
その人が作りたいという欲求、生きることとは別のベクトルで生まれる欲だから好きなのだ。
そして、そのようないわば無駄なものにかける情熱や、ときに切実さをもはらむ表現のあり方に惹かれるのだというようなことを言っていた。

特に妻はアニメが好きで、時間をみつけてはいろいろと見ている。
アニメは映画やドラマと違って、画面に描かれるすべてのものに意味があり、その作り込みの度合いたるやということらしい。

衣食住以外のもの、無駄なものが好きであるということには私も同意であることを伝えると、「食に関心があるのでは?」と問われた。
それはちょっと違っている。
私が関心を持っているのは、「食」というよりも「飲」なのだ。
「飲」すなわち飲み物で、とりわけ嗜好性の高いものが好きなのだ。
そしてそれは文学を好むことと同じことだ。

たとえばコーヒーは文学的な行為だと言える。
文学という営みは、個別具体的な表現活動だ。
文学は普遍的な真理を追究するものではない。
文学は個別具体的な思いや感情を、言語を用いて表現する。
具体的に具体的に著述することで、深みと広がりをみせる。
具体的な語りの過程において、普遍性みたいなものが立ち現れてくることもある。
それはもしかするとイデアみたいなものなのかもしれない。
「人を愛する」とは何か?という定義のままならぬ命題について、作者なりのストーリーで、語りで、レトリックで、あの手この手で「愛」を表現する。
それはきっと、その作者にとっての「愛」で、別の書き手にとってはまた違う「愛」がある。
いろんな「愛」があって、その総体として「愛のイデア」みたいな普遍性が見えてくることもあるかもしれないということだ。

ではコーヒーはどうだろうか。
例えば美味しいコーヒーを思い浮かべてみてほしい。
そのコーヒーは、私が思い浮かべたものとは違うはずだ。
「美味しさ」というのも定義できない。
そこには無数の変数があり、無数のバリエーションがある。
栽培、精製、焙煎、抽出と言った一連の流れだけではなく、誰とどこでどんな状況で、なんて文脈までをも加味すると、ひとつとして同じコーヒーはない。
提供する側も、される側も、それぞれの「美味しさ」があって、一義的には定まらないものだ。
ここではたまたま「美味しさ」を例にとったが、当然ながらそうじゃない観点もあるはずだ。
コーヒーの複雑性は文学に通ずると思うのだ。

というようなことを妻に力説しておいた。
どのように受けとったかは知らない。