カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.1(土)『再読だけが創造的な読書術である』『百冊で耕す』

電車に乗った。
乗車時間の20分で読んだのは永田希 著『再読だけが創造的な読書術である』の第一章。
永田氏は前作『積読こそが完全な読書術である』で、「ビオトープ積読環境」の構築を提唱していた。
情報の濁流に飲み込まれないまれないように、自分の関心に沿った自分なりの積読環境を作ることが必要だと説いていた、いわゆる「積読本」の続編がこの「再読本」だ。
今作では自分を深めるための再読を提唱している。

私の再読事情について述べると、なんとなく本棚の前に立って、適当な本を手に取って適当なページをぱらぱらすることが多い。
そういう読み方をするために本を読んでいるようなところもある。
その良し悪しは留保するとして、ランダムに開いた聖書の目に付いた一節を読むのに近い。
そこには思いがけない発見や感動がある。
もちろんないこともある。
でもそれでいい。
それでいいと思いつつも「当たり」をどうせなら引きたいという貧乏根性もあるので、そのためには選書が重要になってくる。
その意味では永田氏が提唱するビオトープの構築には共感を覚える。

これについては『百冊で耕す』で近藤康太郎氏も同じような主張をしている。
こちらでは自分にとっての必要な100冊を厳選して繰り返し読むことの必要性が語られる。
100冊選ぶためには多くの本を読まなければならないとも。

面白いのは両者とも孤独になることを説いている点だ。
本と孤独は切り離せないのだ。

 

電車の中で本を読んでいるのは一車両のなかにひとりもいないか、いるときで一人。
二人いると多いなと感じるくらいに本を読む人は少ない。
本を読むときにカバーを外すもうひとつの効果は、何を読んでいるかバレにくいというのもある。
バレてもかまわないのだけれど、なんとなく恥ずかしい。
そう言いながら他人が本を読んでいるのを見ると、何を読んでいるのか気になってくる。
私が今日乗った車両には珍しく本を読んでいる人が三人いた。横並びで三人。
正確には二人で、一人はノートを開いていた。

一人は眼鏡の男性。
何を読んでいるかまではわからなかった。

二人目は大学生だろうか、金髪の女性。
モームの『月と六ペンス』の文庫だった。
素敵じゃないか。

三人目、40代くらいの女性がぱらぱらめくっている大学ノートにはタイトルが書かれていた。
「説教」。
中身が気になって仕方がない。
ふつうに考えれば神や仏の教えが記されているのであろう。
しかしもうひとつの可能性のほうへと想像が働いてしまう。
つまり、上司とか親なんかにガミガミいわれるほうの「説教」をノートに記録し、それ持ち歩いて復習しているのだとしたらぜひともその中身をみてみたい。
そんなことを思っていると、私が降りる一駅手前で女性は降りていった。
手書きの「説教」の文字は達筆だった。

 

数時間後、用事を済ませ街をしばらくぶらつき、帰ろうと駅まで歩いていたら、あの月と六ペンスの金髪女性が目の前を足早に歩いていた。
ファッションがが特徴的だったので間違いない。
きっと彼女は帰りの電車で続きを読むのだろう。