カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

本を読む理由 ~意識低い系読書のススメ~

趣味の話

僕の趣味は読書だ。

 

 幼年期の絵本を除いて、自覚的に、自発的に本を読み始めたのは8歳の頃なのでかれこれ27年になる。

三つ子の魂百までとはよく言ったもので、僕にとっての魂は読書なのだろう。

 

今日は僕がなぜ本を読むのかについて思うところ、つまり読書論を述べていきたい。

個人的な見解であることは予めご理解いただけると嬉しく思う。

あくまでも趣味の話だ。

 

本記事の目的

本題に行く前にまずは、本記事の目的を明らかにしておく。

何事も目的が大事だとどこかで聞いた。

どちらかというと僕は天邪鬼な気質なのだが、本記事における重要な点でもあるので、先達の助言に従うことにする。

 

本記事の目的。

それは、意識低い系読書」の意味をお伝えすることにある。

そして読書の呪縛からの解放。

これを主眼に置いて読んで頂ければ幸いだ。

 

意識低い系読書

まず、「意識低い系読書」とは何か?

これは僕のTwitterのアカウントをご覧になったことがある方はご存じかもしれないが、@以下に付けたキャッチコピーのようなものだ。

 

あいすカフェオレ@意識低い系読書

 

これが僕のアカウント名。

そして、この部分には一応の由来もあるのだが、未だかつて誰にも聞かれたことがない。

そろそろ誰か聞いてくれてもいいんじゃないのかと思うのだが、その時は訪れそうにない。

悲しい現実である。

説明の機会を得ぬまま、放り出された言葉はいったいどこでこのやりきれぬ気持ちを消化すればいいのか。

そうだ、久しぶりにブログを更新しよう。

このような次第だ。

 

僕が本を読む理由とリンクしている部分なのでぜひご理解いただければと思う。

 

本を読む理由

僕が本を読む理由。

つまり、なぜ読書をするのか?という問いへの回答を僕は持ち合わせていなかった。

あまりにも日常の中に溶け込みすぎてしまった行為に関して、考えることは少ない。

喉が渇けば水を飲むし、眠たくなれば布団に入る。

これを言語化するのは困難な試みだった。

色々な理由や要素が絡み合っているような気がしていて、一言で表現できなかった。

 

これまでの人生を振り返ってみると、一貫して読書を趣味としてきたことは前述の通りだ。

だが、本を読む理由や意味について人と意見を交換するということは、ほとんどなかった。

 

僕にとって読書は孤独な営みでもあった。

 

僕が無知なだけだったのかもしれないが、現在のようにネットが発達していなかった頃は読んだ本の感想や書評を参照する場所も限られていたように思う。

 

余談だが、僕はタイトルに「読書」とつく本や、本の読み方が書かれている本、つまり読書術や読書論についての本は、無条件で買うか借りるかしていた時期もあった。

人の本の読み方に関心があり、そこそこの時間とお金を費やしてきた。

読書フェチとも言えるだろう。

色々な本の読み方があり、色々な向き合い方があり、色々なスタイルがある。

これも本から学んだことのひとつだ。

 

話を戻そう。

本を読む理由。

ネットの発達によってさまざまな場所で本の感想や書評、あるいは読書論にアクセスする機会が増えたことが僕にヒントをもたらした。

自分以外の誰かと相対化することで、次第に本を読む理由が浮かび上がってきた。

 

なぜ本を読むのか?

これを一言に集約すると、「はぁ~ん!」に出会うため、となる。

「はぁ~ん!」というのは、

心を揺さぶられる文章、身体の芯まで突き刺さる表現、自分にはない思考の過程や論理などを指す。

つまり、読んだものによって心が動くもの。

それらをみつけるために本を読んでいる。

 

読書によって何を得たいのかというと、つまるところ感動を得たいのだ。

 

読書の効用

読書の効用としてよく目にするものの中に、知識や情報を得られるというものがある。

特にインターネット上の情報と比較して、本は体系的にまとめられているし、出版社というフィルターを通すことで一定の質が担保されているから、本の方がいいと言われたりもする。

だから本を読もう、と。

 

確かにそうかもしれない。

それを否定する気はない。 

しかし、僕にとっての読書というのは情報収集のツールではない。

感動をもたらしてくれるものなのだ。

 

本を読む過程で様々な知識を得てきたことは事実だが、それはあくまでも副次的なものだ。

そう、知識や情報は副次的なものなのだ。

豆腐の製造過程で得られる「おから」みたいなものだ。

 

知識はおから。

(自由に引用してほしい)

 

そう、僕が得たいのはおから(知識や情報)ではなくて豆腐(はぁ~ん!)なのだ。

ぷるんぷるんと心を動かしてくれる豆腐なのである。

だんだん意識が低い感じになってきた。

 

意識低い系読書、再び

「本を読んでも内容を忘れてしまって、頭の中に残らない」

これはよく聞く悩みであるが、知識はおからだと思えば特に問題はない。

知識は残らなくても、その本を読むことによって何かしら心を動かされたということであればそれはそれでいいと思っている。

そもそも忘れるのがデフォルトである。 

 

「得た知識を行動に繋げなければ意味がない」

立派だと思う。

だが待ってほしい。

本当に意味はないのだろうか?意味って何だろう?

私は思う。

意味を決めるのは自分だし、見出そうとして見出せるものでもないのではないかと。

それはある日ふとした時に、思いもよらないタイミングで降ってくることもあるのではないかと。

そして、こうも思う。

意味なんてしょせん後付けだ。

 

「読書はコスパがいい。レバレッジを利かせて1500円があとあと何十倍にもなって返ってくる」

僕は損得勘定が嫌いだ。

そういう目線で本を選ぶというのもなんだか窮屈に思える。

発想の貧しさを感じてしまう。

読んでいて面白ければそれでいいじゃないか。

 

冒頭に書いた通り、読書は趣味。

そう、趣味なのだ。

 

何かの役に立てなければとか、行動に移してこそとか、そんな観点で趣味をやっているだろうか?

趣味としての読書も同じことだ。

 

基本精神は気楽に読もう。

これが意識低い系読書の根幹だ。

こうしなければいけないという読書の呪縛は無視していい。

 

知識と知識、情報と情報がつながって新しい考えが生まれるという側面はもちろんある。

でも思いだしてほしい、知識はおからだ。

おからとおからがくっついても、それはおからだ。

「はぁ~ん!」という感動ではないのだ。

 

知識や情報を得たいのなら、読書じゃなくてもいいと思っている。

今の時代、いろんなコンテンツが溢れている。

その中から自分に適したものを必要に応じて選択すればいい。

 

だからこそ僕は読書でしか得られない体験として「はぁ~ん!」に出会うために本を読んでいる。

 

最後に

「はぁ~ん!」のために本を読む。

これだけのために長々と書いてしまった。

何が言いたいかというと、本を読むのに肩肘張る必要はないということだ。

だらだら寝っ転がってお煎餅でも食べながらページを捲る。

そんな至福なひと時はない。