カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.10.20(金) 『君が手にするはずだった黄金について』

昨晩、食後にコーヒーを飲んだせいか、なかなか眠れなかった。
しかたがないのでポッドキャストを聴いたり、音楽を聴いたりしてみたけれど眠りは訪れてくれず、ただただ時間だけが過ぎて行った。
そのせいで今日は眠たい。
昼寝をしようかと横になってみても、今度はいろいろな雑念が湧いてきてそれも叶わず。
ちょっと出かけたついでに本屋に立ち寄って、小川哲の新刊『君が手にするはずだった黄金について』を買った。
帰ってさっそく読み始めた。
40ページほどの「プロローグ」を読み終えたところだが、傑作の予感しかしていない。
幸いなことに発売直後ということもあって、テーマもあらすじも、読んだ人の感想もほとんどみかけていない。
前情報ほぼゼロの状態で読めるのはありがたいし、本を読むことの喜びが二段も三段も上がっている気がする。
もし、このブログを読んでくださる方の中で、この本を楽しみにしている方がいるとしたならばそれは申し訳ない。
そのときはそっとブラウザを閉じてほしい。
本書の「プロローグ」には読書に関する箇所がある。

 読書とは本質的に、とても孤独な作業だ。映画や演劇みたいに、誰かと同時に楽しむことはできない。最初から最後まで、たった一人で経験する。それに加えて、本は読者にかなりの能動性を要求する。目の前で何か行われていることを受けとればいい、というわけではない。読者は自分の意志で本に向き合い、自分の力で言葉を手に入れなければいけない。そんな拷問を、場合によっては数時間、十数時間も要求する。僕はときどき、本というものが、わがままな子どもや、面倒くさい恋人のように見える。
「僕だけを見て。私にだけずっと構って」
 本が、そう喚いているように感じられるのだ。実に傲慢だと思う。
 しかしその傲慢さのおけげで、僕たちは一冊の本と深い部分で接続することができる。誰かによって書かれたテキストと、たった一人の孤独な読者。二人きりの時間をたっぷり過ごしたからこそ、可能になる繋がりだ。

出典:小川哲『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)

私もまた一人の孤独な読者として、この本と向き合っている。
しかし、やはり寝不足によるはっきりとしない頭では、これ以上読み進めるのは困難と判断し、明日以降に持ち越すことにした。


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