カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.8.24(木) 8月24日のグラノーラ、『八月七日のポップコーン』

朝はたいていグラノーラを食べる。
なんとなく朝食にちょうど良い気がしている。
カルビーのフルグラを常備しているが、時々ちがうものを試す。
フルグラ以外で良いものがあれば、入れ替わりでそれが常備となる予定だが、いまのところ現れていない。
今日は、カルビーの「香ばしグラノーラ アーモンド & チョコクランチ」を試してみた。
美味しいのは美味しいのだが、もひとつ惜しい感じがある。
フルーツが入っている方が好みなのかもしれない。
依然としてフルグラが暫定一位のままだ。

子どもが夏休みのあいだは、小説、特に長編小説を読むことはあきらめている。
集中できないし、とぎれとぎれになる。
あと一週間ばかりだ。
長編は無理でも短編ならなんとか読める。
短い方がありがたい。
そういう意味では、乗代雄介氏の『掠れうる星たちの実験』に収められた「八月七日のポップコーン」はちょうど良かった。
8ページしかない。
掌編と呼ぶほうがふさわしいだろう。
タイトルにあるように八月七日のうち、数分間を切り取った話だ。
主人公の「僕」と5歳の(たぶん)甥が、留守番をしている。
その日、近所ではお祭りらしき催しがあり、「僕」の両親と僕の兄夫婦つまり甥っ子の両親は、打ち上げ花火を見るために出かけていった。
行きたくないとごねた甥と僕がマンションから花火を見ている状況だ。
ベランダで花火を見ながらなされる、なんてことはない会話の中に、人生の悲哀と希望が見え隠れする。

「あとでさがしたってウォーリーはいるよ。みんなが盛り上がって、誰も見向きもしなくなって、開きっぱなしで放っておかれた本を見てごらん。ウォーリーはいるんだよ。見つからないかもしれないけどね」

引用:乗代雄介「八月七日のポップコーン」

部屋に入ると甥は五歳児らしく、ソファで寝息をたてはじめる。
「僕」はそんな小さな甥っ子の眺めながら、テーブルにあったポップコーンをひとつ手に取る。

誰だって、いつまでもポップコーンの種じゃいられないんだ。黄金に輝いて透き通る無邪気さがそのまま頑なさであるような夢は、数年も経てばおしまいだよ。この世でいつの間にか溜め込んだ熱が、僕らをいびつに弾けさせてしまうんだ。拍子抜けするほど、何の予兆もきっかけもなくね。もちろんそれは、時には打ち上げ花火みたいなものだ。けど、あんまりいいもんだと、むしろ君はそのせいで、みんなのことを考えながら憂い沈んでいくだろう。住みにくい人の世で、みじめにならない方法を教えてあげられるとすれば、君がすばらしい人間になればなんの心配もいらないということだ。

引用:乗代雄介「八月七日のポップコーン」

乗代氏の小説は、これでもかというくらいの細かい描写が魅力のひとつではあるが、同時に、書かない部分を想像させるところに真髄があるような気がしている。
ここでは、「僕」の人生や生活が語られることはないが、引用した箇所には行間を想像せずにはいられない趣が漂っている。

ツクツクボウシも泣き始め、夏が終わっていく寂しさを感じ始める今日この頃だ。


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