カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.8.18(金) 「バナナフィッシュにうってつけの日」

何を食べようか迷った時にうってつけの食べ物はそばだ。
今日はゆでることなく流水でほぐすだけのそばを食べた。
「今日は」と言ったけど、家でそばを食べる時はたいていこれだ。
惣菜コーナーで天ぷらも買ってみようと物色したが、いまいちピンとくるものがなく諦めた。
心のどこかでナスの天ぷらを所望していたことに気がついた。
結局いつものとおり、天かすとネギを大量にかけた冷やしそばを食べた。
つゆは創味のつゆを薄めただけのものだ。
「はいからそば」と称しても間違いではないだろう。

サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んだ。
2回読んだ。
一度読んで、そばを挟んで、二度目を読んだ。
一回では全然わからなかった。

舞台は海辺のホテル。
主人公グラス・シーモアの妻・ミュリエルが母親と電話をするシーンから始まる。
母親は娘のことを案じている。
娘の夫つまりシーモアには精神的に不安定なところがあり、そのことを母親は心配しているという旨の電話だ。
ミュリエルはそんなことよりも婦人雑誌を読んだり、爪の手入れをしたりで忙しく、母親の心配ごとには取り合わずに電話を切る。
母親の心配の種であるシーモアは、ビーチで同じホテルに宿泊しているシビルという小さな女の子と遊んでいる。
ちょっとしたことで機嫌を損ねていたシビルに、シーモアはバナナフィッシュをつかまえようと提案する。
「今日はバナナフィッシュにうってつけの日だから」と。
シビルは海の中をみてみるものの「一匹もみえない」と言う。
それもそのはずで、バナナフィッシュはシビルがつくりあげたひとつの概念のようなもので、本作では社会を取りまく状況の比喩として機能している。

「あのね、バナナがどっさり入っている穴の中に泳いで入っていくんだ。入るときにはごく普通な形をした魚なんだよ。ところが、いったん穴の中に入ると、豚みたいに行儀が悪くなる。ぼくの知っているバナナフィッシュにはね、バナナの穴の中に入って、バナナを七十八本も平らげた奴がいる」青年は浮袋とその乗客を沖に向けて一フィートほど静かに押した。「当然のことだが、そんなことをすると彼らは肥っちまって、二度と穴の外へは出られなくなる。戸口につかえて通れないから」

引用元:サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」(野崎孝訳、新潮文庫ナイン・ストーリーズ』所収)

シビルは一匹見えたと言って、ホテルへ帰っていく。
シーモアも自分の部屋に帰ってある結末をもって話が閉じられるというストーリーだ。

ストーリー全編を通して、一見なんのことを言っているのかわからない。
しかし、戦争の傷跡、それから戦後の俗世間という補助線を引いてみることで、少し見通しがよくなる。
語られるディテールの細かな意味合いだったり含意が、なんとなくわかってくる。
しかしながら、自分がこの話をどのように消化すればいいのかという点については少し時間を要しそうだ。
他のサリンジャー作品を読みながら考えていきたい。


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