カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.12(水) 「ゴリラの背中」

サッカーと背中の話をする。

私が通う中学には、サッカー部がなかったのでバスケ部に入った。
ところが各所の働きかけにより、サッカー同好会が発足した。
バスケよりもサッカーが好きだったので、迷わずバスケ部を辞めて、サッカー同好会に入った。
中学2年の春のことだ。

そんな時期にできたサッカー同好会には、3年生が3人しかいなかった。
クラブチームでサッカーをやっていた二人と、テニス部を辞めてきたひとり。
これまでの2年間やってきて、3か月後の最後の夏の大会を残すのみというテニスを辞めてまでサッカーに転部するのはすごいことだと思った。

2年生と1年生はそれぞれ10人くらいいたと思う。
部室もなかったし、学校の運動場も使えなかったので、近くの運動公園が練習の場となった。
顧問には、教頭先生が就いた。
かたちだけの顧問なので、指導はできない。
某大学のサッカー部の学生がコーチとして私たちにサッカーを教えてくれることとなった。
なにもかもが手探りのなか、サッカー同好会はスタートした。
私たちには妙な連帯感があった。
先輩も後輩も関係なく、日が暮れるまでボールを追った。

充実した部活だったが、ひとつ問題があった。
私たちのチームにはゴールキーパーがいなかった。
誰かがキーパーになるしかなかった。
あるときコーチに呼ばれた。
ジャンプしてみろと指示されるままに、いろんなバリエーションのジャンプをやった。
私にはジャンプ力と反射神経が備わっていることがわかった。
キーパーをやってくれと頼まれた。
承諾した。
キーパーだったらレギュラー確定だという下心も少し頭をよぎったことは言うまでもない。

キーパーは相手のチームのシュートをキャッチしたり弾いたりしてゴールを守ることが主な使命だ。
それ以外にも、チームの最後方から全体を見渡せるので、チームに指示を出すのも重要な役割だった。
指示を出すのは得意ではなかったけれど、この一番後ろからみる風景が好きだった。
躍動するチームメイトの背中を一番後ろから見ていた。

話は変わるが、私は家族の先頭に立ってぐいぐい引っ張るタイプの父親ではない。
前を行くみんなをいちばん後ろから静かに見守っている。
ただ危険が及んだり困ったことになって助けが必要なら、すぐに手を差し伸べられるような距離で見ている。
先日も近所の桜並木を家族で歩いた。
そのときも一番後ろだった。
これまでに撮った写真をみても、後ろ姿の家族を写したものが多いことに気がついた。

 

と、ここまでに書いたようなことを、小川洋子『からだの美』の「ゴリラの背中」を読んでいて、なんとなく思った。
もっともここで語られるゴリラの背中は、オスのゴリラにみられるシルバーバックという特徴で、信頼できる強いものとしての背中だ。
だからまったく逆のことなのだけれど、背中からつながる連想としては家族の背中であり、チームメイトの背中だったのだ。

背中は別れの象徴だから、と言って、不確かな未来を思い、心を惑わせているのは人間だけだ。

なるほど、私はつねに別れの予感を胸のどこかに抱いているのかもしれない。