カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.7(日) 『ちゃぶ台 9 2022春/夏号』

痛恨のミスに気がついたのは、ホームに停車していた電車に乗り込んだときだった。
あっ!と思って電車を降りるか一瞬迷ったが、時すでに遅く、ドアは閉まり始めた。
降りたところで結局は、どうしようもなかったのだから。
空いていた席に座り、リュックの中身を確認してみる。
やはり本は入っていなかった。

本を読めない電車の中は、改装工事中の宮島の大鳥居みたいなものだ。
物足りないけれど、これはこれでいい。

しかたがないので、ただ座ったままぼーっと外を眺めていた。
窓から見える景色は静かに移っていく。

昨日からの雨は、まったくやむ気配をみせない。
五月雨とはよくいったもので、飽きもせずだらだらと降り続いている。
五月雨というにはひと月ばかり早いけれど、梅雨に入ったような降り方にそろそろうんざりしてくる。
本来だったら、今日はゴールデンウィークの締めくくりとして、息子二人とJリーグ観戦に行くつもりだった。
連休最終日、風邪を引いてもいけないという心配と、本人たちの意思を確認した結果、けっきょく私一人で行くことになった。
それはそれでいいのだけれど。

電車という乗り物は不思議だ。
何百人というひとが、時速数十キロのスピードで横に向かって走っているのだから。
横に移動するのはカニだけではなかったのだなとつまらないことを思う。

スタジアムにつくと、人々はレインコートやポンチョを羽織り、雨の中の観戦の態勢を整えている。
私もビニールのポンチョを着てバックスタンドのいつものシートへ向かう。
バックスタンドには屋根がないので、試合開始までは屋根のある通路に退避している人も多い。
人でごったがえす通路を抜け、スタンドへ入るとちょうどゴールキーパーの練習が始まるところだった。
荷物にビニール袋をかぶせ浸水対策をし、着席する。
キックオフまでのあいだに、ポテりこを食べる。
ポテりこはカルビーが出している揚げたてのスナック菓子で、じゃがりこの揚げたてバージョンのようなものを想像してもらえるといい。
ホクッとした食感がくせになる一品だ。
雨に濡れながら食べるポテりこも悪くない。

ミシマ社が発行する雑誌『ちゃぶ台 9 2022春/夏号』に、津村記久子Jリーグ観戦した日々のことを綴ったエッセイ「西京極の共有地」を寄稿している。
西京極のスタジアムに何度も行き、京都サンガを観戦していたそうだ。
このエッセイを読んで以来、津村氏への親近感は勝手に跳ね上がった。
同志じゃないかと。

でも今日も牛すじでいいんだろうか、せっかくいろいろあるんだし、たまには別のものにした方がいいだろうか、ということをずっと考えていた。
 それで結局牛すじを食べていた。わたしにとって西京極のスタジアムは、サッカーを観戦する場所であると同時に、牛すじの煮込みを食べる場所だったように思う。

引用元:『ちゃぶ台 9 』所収「西京極の共有地」(津村記久子)

津村氏にとっての牛すじが、わたしにとってのポテりこということになる。
この文章に倣うなら、エディオンスタジアムはサッカーを観戦する場所であると同時に、ポテりこを食べる場所でもあるのだ。
いつも同じものを食べてしまうところも、その葛藤もよくわかる。

津村氏は牛すじを食べ、サポーターたちを眺めながら小説のことを考えることもあったという。
『ディス・イズ・ザ・デイ』のなかの「龍宮の友達」のあらすじは、西京極のスタジアムで試合の待ち時間にまとめたそうだ。

試合が始まるまでの、この待ち時間は貴重だ。
練習を観ながらとりとめもないことを考えていると、日々の流れる時間の中から切り離されたような感覚になる。
それはある種の浄化作用をもたらす。
サッカーをみながら、つねに何か別のものをみているのだ。
津村氏はエッセイの最後をこう締めくくる。

人生の大事なことはだいたいサッカー場で学べるんじゃないか。そう思わせてくれた西京極のスタジアムに感謝する。

エディオンスタジアムは今年がラストイヤーになる。
サポーターたちのいろんな思いや、あるいは人生が交差したこの場所に、私もその一人として感謝の意を捧げ、今日も四角いグラウンドを見つめている。

f:id:cafeaulait-ice:20230508101700j:image


f:id:cafeaulait-ice:20230508101712j:image