カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.4.14(金) 『街とその不確かな壁』『猫を棄てる』

次男の小学校入学式から一週間が経った。
来週から給食が始まるようだ。
長男と次男は学年が3つ離れている。
長男が入学してからもう3年も経つのかと驚く。

長男が幼稚園を卒園する2020年3月、コロナの影響により、卒園式まで残り一週間というタイミングで休園になった。
そのまま春休みに突入し、なんとか卒園式だけは執り行われた。
その卒園式の翌日に、娘が生まれた。
慌ただしい春だった。

長男の小学校入学式、次男の幼稚園入園式が簡素化した形で行われたのちに、すぐに休校、休園となった。
私も在宅で仕事をすることになった。

その頃の写真をスマホで見返してみると、やたらと公園で撮った写真が出て来る。
被写体は二人の息子。
外出できなくなった息子たちのストレスを発散させるため、あるいは自身のストレスもあったのかもしれない。
夕方の5時ごろになると仕事を切り上げ、3人で少し離れた公園まで歩いた。
6時の鐘が鳴るまでの1時間、縄跳びをしたり、フリスビーをしたり、ブランコに乗ったりして遊んだ。
タイプしながらなんだか泣けてきた。

ちょうどその頃、発売になったのが村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』だ。
村上春樹がこれまで頑なに語ろうとしなかった、父親について書いた貴重なエッセイだ。
冒頭で、かつて飼っていた雌猫を海岸まで父親と棄てに行ったときのことが綴られている。
海岸に猫を置いて家まで帰ってくると、なぜかいま棄ててきたはずの猫がいて結果的にまた飼い続けることになったというエピソードだ。
にゃんということだろうと思ったに違いない。
村上はこう続ける。

うちにはいつも猫がいた。僕らはそれらの猫たちとうまく、仲良く暮らしていたと思う。そして猫たちはいつも僕の素晴らしい友だちだった。兄弟を持たなかったので、猫と本が僕のいちばん大事な仲間だった。
『猫を棄てる』(文藝春秋)より

猫についても、本についても自身ににとって大事なものだと村上はたびたび言及している。
それは作品にもよく反映されていて、猫も本もよく登場する。
昨日から読み始めた『街とその不確かな壁』にもさっそく出てきた。

主人公の「ぼく」は海に近い静かな郊外の住宅地に住み、年老いた黒猫を一匹飼っている。
もともと人見知りする性格で、学校で落ち着ける場所は図書室。
本を読むのが大好きな地元の公立高校に通う17歳だ。

村上春樹そのまんまじゃないか。
このプロフィールをみて率直にそう思った。

さらに読み進めると、「ぼく」がこの物語のヒロイン(と言っていいだろう)である「きみ」と親しくなったきっかけが、エッセイコンクールの授賞式だったことがわかる。
そのエッセイのテーマが「わたしの友だち」で、「ぼく」は飼っている猫について書き入賞している。

ぼくは四百字詰め原稿用紙五枚を用いて語りたいような「友だち」を、残念ながら一人として思いつけなかったので、うちで飼っている猫について書いた。ぼくとその年老いた雌猫がどんな風につきあい、生活を共にし、お互いの気持ちを——もちろんそこには限度はあるものの——伝え合っているかについて。
『街とその不確かな壁』(新潮社)より

 

 

過去の作品でも、これは村上自身のことなのでは?と思えるような設定や描写はたびたびあった。
すべてはフィクションにおけることなので、どこまでが作者自身のことでどこからはそうでないのかということは語るに値しないことなのかもしれないが、ここまでストレートに「っぽい」ものもなかったように思う。
つまり『街とその不確かな壁』は、村上春樹自身の物語でもあるのだと言っても過言ではないだろう。

先日公開されたインタビューにおいて、「残りの人生、あといくつ長編を書けるかな」と語る村上が、「魚の小骨のようにずっと引っかかっていた」という過去の作品に、決着をつけるために書いたことを考えると、なおのこと、そう思えてくるのだ。