カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

心にうつりゆくよしなしごとは端に寄せるに限る

インターネットで、とある書き込みを見た。
それは琵琶湖の大きさを表現したものだった。
琵琶湖と言えば、滋賀県の面積の1/6を占める日本一の湖。
滋賀県のど真ん中に位置するその湖は、滋賀県そして滋賀の県民にとってはアイデンティティと言っても過言ではないだろう。
(ちがったらごめんなさい)
で、その書き込みでは、琵琶湖の大きさを雪印の6Pチーズを用いて表現していた。
6Pチーズの1ピースを丸いパッケージの中心に据えるというもので、その存在感たるやまさに滋賀県における琵琶湖だった。
パッケージの残りのスペースに6Pチーズの残り5個が入るようには思えない。
要するに「琵琶湖でけー」だ。
小学生の頃に面積の1/6を占める事実を教えられるも納得いかなかったという滋賀県民も、これには納得せざるを得ないようであった。

1/6程度のものでも、真ん中にあることで体感的にはとても大きなものに感じてしまう。
おそらく琵琶湖が真ん中ではなくて、例えば北部に寄っていて、日本海と同化するような位置にあったとしたら、そこまで大きく感じることはないと思う。
これがこの琵琶湖と6Pチーズが示唆するところのひとつだろう。

 

人間の思考もきっとこれと同じだ。

 

ときに僕たちはささいなことに心を奪われてしまう。
他人から見ればたいしたことないようなことが、重要なことに思えてしまい、そのことばかり考えて何も手につかなくなる。

一旦そのことを忘れることができても、何かの折にふと頭をよぎり、また同じことをぐるぐると考えてしまう。
僕の場合はということだが、意識して捨て去らない限り、それはずっとつきまとう。
ほんとうは全然たいしたことじゃないのに。

そんな時はこの6Pチーズを思い出そう。
真ん中に置かれたチーズは大きく見えるけれども所詮は1/6。
端に寄せよう。
端に寄せればたいしたことはない。
ささいなことは目の届かないところに追いやってしまえば、そのうちに忘れてしまう。
しょせんはその程度のことだ。
琵琶湖を県の端に寄せることに比べたらずっと簡単じゃないか。