カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

お年玉を握りしめ

「お年玉でニンテンドーラボを買う」
そう高らかに宣言したのは小1の長男だ。

ニンテンドーラボは、任天堂より発売されているNintendo Switch用のソフトだ。
段ボール製のペーパークラフトとセットになっていて、Switchの本体やコントローラーを組み合わせて遊べる創造性の高いゲームだ。

それを買いに行きたいと言う。

ということで、今日はニンテンドーラボを買いに行った話だ。

 

1軒目。
まずは家のそば(徒歩5分。近い!)のイオンモールへ。
予想はしていたが、ここにはなかった。

 

2軒目。
次に近いゲームも取り扱う書店へ行ってみる。
先のイオンの店に比べると規模も大きいので、もしかしたらと期待していた。
可能性としては五分五分。
が、品ぞろえは豊富であったものの、ここにもニンテンドーラボはなかった。

 

3軒目。
最寄りの家電量販店。
ここにはあってほしかった。
なぜならここを外せば、近所で他にありそうな店がない。
しかし残念ながらここにもなかった。

ここでAmazonの在庫をチェックしたうえで意思確認。

  • 3軒回ったがどこにもなかった。
  • 次の店に行けばあるかもしれないし、ないかもしれない。
  • 次の店は少し遠方であるため時間がかかる(息子は遠出を好まない)。
  • Amazonで注文すれば1~2日後には届く
  • 今日は遊べないが、1日か2日くらいのことだ

以上を元に判断を委ねることにした。
寒かったのと、遠方まで行くのが若干面倒だったこともあり、今日の所は諦めてAmazonを選択することを半ば期待していた。

息子も少し疲れたのか返事は「注文でいい」ということだった。
そしてこう続けた。
Amazon便利だね」と。

そうだよな、便利な世の中になったものだと思い、Amazonの「カートに入れ」ようとしたその時、僕のスイッチが入った。

 

ふざけるな。
今日買うつもりだったんだろ?
今日買って、組み立てて、プレイするんだろ。
バイクに乗るんだろ?ピアノを弾くんだろ?釣りをするんだろ?
だったら探しに行こうじゃないか。
簡単にあきらめてなるものか。

 

何が僕をそうさせたのかはわからない。
けれども僕は今日、手に入れてあげたいと、そう思った。
僕の方が意地になっていた。

 

僕はゲームやおもちゃの在庫が豊富な店に狙いを定めた。
ここになければ次は・・・とリストアップし、効率的なルートを考え、訪問計画を立てた。
こうなったら長期戦も覚悟のうえだ。
待っていろ、ニンテンドーラボ

と、大袈裟に書いてしまったが、結果的には次の店にあった。
意気込んだ割には簡単に手に入ったわけだ。

息子は喜んでいた。
大きなパッケージを抱え、満足そうに帰路に着いた。

この時僕は達成感と同時に、ひそかに別の感覚を味わっていた。
懐かしかった。
欲しいものを求めて何軒も店をジプシーするこの感覚が。

 

思い返せば僕が子供の頃は、Amazonなんてなくてそれが当たり前で。
今のように何でも欲しいようには手に入らなくて。
だからといって子供の機動力では限界もあって。
それでも諦めきれずにお年玉を握りしめ、隣町までペダルをこいで。
なければまたその隣の町まで行って。
探していたものにようやく巡り合えた時の喜びを、一人で噛みしめながら帰ったっけ。

 

今では何の苦労もなく指先一つで何でも注文できて、勝手に家まで届けてくれて。
いつしかそれが当たり前になって。

世の中はどんどん便利になって、僕たちはその恩恵を享受できる、ありがたい時代だ。
と同時にこうも思う。
僕は便利なことと引き換えに何かを失っているんじゃないか。
そしてそのことに気づいてないんじゃないか。

何かを得ようと思うと、何かを手放さなければならない。

僕たちが手に入れてる便益はあまりにも生活に溶け込みすぎていて、その一方で失っていってるものが何なのかもわからないまま時間が経過していく。
気づいたころには何も残っていなかったりするんじゃないか。
そんなことをぼんやりと思った。

 

ニンテンドーラボを見つけたときの一瞬のきらめき。
amazonで注文していたら、みることはなかっただろう。

僕はこの正月に、一つの便利を手放したことで、何かを得たのかもしれない。
そしてそれはとても些細なことかもしれない。
でも人生を彩るのは些細なことの積み重ねだ。
それはひとつの達成であり、ひとつの風景であり、ひとつの思い出であり。

 

手に入れたニンテンドーラボを組み立てている君は、もう忘れてしまっているかもしれない。
こんなことを言っている僕もそのうち忘れてしまうかもしれない。
だからここに書き留めておくよ。
忘れてもまた思い出せるように。