「あなたがいて、わたしがいる」
これが僕の考える多様性の定義だ。
「多様性」という言葉を目にする時、国籍がどうとか(人種)、女性だからどうとか男性だからどうとか(性別)、高齢者がどうとか若者がどうとか(年齢)、価値観がどうとか思想がどうとか、そういう言葉ばかりが後ろにくっついてくる。
そしてこう続く。
「多様性を認めよう」
「多様性を受け入れることが重要だ」
「多様性を重視しなければいけない」
はたして「多様性」とはそういうものなのだろうか?
そして、そのようなことを言う時、なぜその人は多様性を「認める側」なのか「受け入れる側」なのか。
僕にはよくわからない。
「多様性が叫ばれる昨今」なんて、ちゃんちゃらおかしい表現だと思う。
勝手に叫んでろよ。
本来人間は一人一人が違う個体で、それぞれ固有の人生を背負って生きている。
私という人間がいて、私のまわりには私以外の人がいて、その周りにはさらに別の人がいて。
冒頭に書いた「あなたがいて、わたしがいる」というのはそういう意味だ。
自分と自分以外の人がいる状態。
つまり多様性というのは、本来ただそこにあるだけのものなんじゃないだろうか。
ただそこにあるだけ。
それだけ。
だから、それを認めるとか受け入れるとかそういう発想は、なんだか自然じゃないような気がしている。
うまく言語化できないのがもどかしいけど、「多様性を考えること」自体がすでに、多様性を損ねてしまっているような感覚が僕にはある。
週末におでんを作った。
大根、こんにゃく、牛スジ、たまご、ちくわにはんぺん、ごぼう天。
ありとあらゆる具材が鍋の中で煮込まれている様子を見て、これぞ多様性だなんて発想はさすがに安直すぎるとは思う。
しかし、「多様性」というその言葉も中に放り込んでじっくり時間をかけて煮てしまえばいい。
そんな風に思うのであった。
ちなみに好きな具はもち巾着とたまごだ。