カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

趣味としての読書①

趣味は読書だ。

そう言うと、どういうわけか趣味がない人として認定される。
あるいは変わり者として。

人はなぜ読書を趣味として扱ってくれないのか。
おそらくは、特にこれといった趣味のない人が、無難な趣味として挙げることが多いためじゃないかと推測しているが、僕の場合、趣味として読書を嗜んでいる。

 

【趣味】①専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄。

 出典:『岩波国語辞典 第八版』


僕が楽しみとして愛好している読書についてこれから述べようと思う。

 

2020年、読んだ本の数は232冊。
日本人の約半分が月に1冊も本を読んでいないらしいので、一般的に言って多い方だと思う。
さすがにこれは趣味として認めてもらってもいいような気がするのだが、これを言うと冒頭にも書いた通り、変わり者として扱われるのでどうでもよくなってくる。
趣味なんてそんなものだ。

僕の読書スタイルは複数同時並行読みだ。
書いて字のごとく、複数の本を同時に並行して読み進めている。
2020年末の時点で、20冊くらいの本が現在進行中の本として書棚に並んでいた。
積読ではなく読みかけの本が20冊ということだ。

基本的には数十ページくらいの「1章」を一つの単位とし、それを複数の本で往ったり来たりして読み進めている。

なぜこのようなスタイルになったかというと、よく言えば好奇心に身を任せて、悪く言えば飽きっぽいということだ。
かつては1冊の本を読み終えたら、次の本、それが終われば次の本という具合にきれいに読んでいた。
ところがいつの日からか、一冊の本を読み終わらぬうちに次の本を読みたくなって読み始め、気が付くとそれが20冊くらいにまで膨れ上がっていたということだ。
リボ払いと同じ構造だ。
今日からは、リボルビング式読書と呼ぼう。
いや、読むページ数(リボ払いで言う所の毎月の支払額)は一定ではないので、ちょっと違うか。

そう、各本ごとの読むペースには濃淡があって、1日で読み終える本もあれば、読了までに1か月以上、時には数か月を要すものもある。
興味関心の度合いと、本の厚さと、内容の濃さによってまちまちだ。

この濃淡こそが同時並行読みの肝であるのかもしれない。
このスタイルに落ち着いたのは、飽きっぽいからということを先ほど述べたが、もう一つの理由として、時間の制約というのもあった。
子供が生まれてからというものの、本を1冊通して読む時間を確保するのが難しくなったこともあって、短時間で読める分だけ読んでいるうちに、読みたい本が溜まっていく。
そうすると次から次に読みたくなって、手を広げているうちに今のスタイルに落ち着いたというのが本当のところかもしれない。
今となってはもうわからない。

話がそれた。
濃淡についてだ。
複数の本を同時に読むことによって、良くも悪くもメリハリがつく。
そこに表れる濃淡によって、今の自分のコンディションや関心の所在が明確になってくる。
自分を知る、あるいは自分を掘ることにもつながっていく良さがあるのではないだろうか。

ただ、20冊にもなるといつまでたっても同じ本を読んでいるような感覚が続くので、今年は少し減らそうと思っている。

 

眠たくなってきたので、この続きはまた別の日に改めようと思う。