カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.29(月) 『ジブリの哲学』、映画『旅の重さ』

春の陽が射す教室で、まどろみのなか聴こえてきたのは吉田拓郎の「今日までそして明日から」だった。
夢か現か、判然としないままぼんやりと目に入ったのは白黒の映画のようだった。
拓郎の歌声に身を委ねているうちに、再び眠りの世界へ引き込まれた。
目が覚めると講義は終わっていて、拓郎の歌をバックに一人の少女が歩いているシーンだけが、頭の中に残っていた。

 

高校卒業後、地元を離れキリスト教系の大学に進学した。
キリスト教を信仰しているわけではないが、キャンパスの美しさに魅かれて入学した。

一回生の基礎教養科目で、キリスト教について学ぶ授業があった。
学部棟の大教室で、同じ学科の全員が履修する科目の、3回目だか4回目だかの講義だった。
今思えば、もう少し関心をもってその授業へ臨めばよかったのだけれど、当時の私にはただの必修科目のひとつにすぎなかった。
ひとたびつまらないなと思うと、教授のしゃべる声は小鳥のさえずりと同化して、私は春うららな世界へと誘われるのであった。
私は涅槃像のように目を瞑り、うつらうつらと舟を漕ぐ旅人であった。

あの講義から19年が経った今も、あれは何だったのだろうかと思う。
キリスト教の授業でなぜ吉田拓郎なのか。
なぜ日本の白黒映画なのかと、折に触れては思い返すもわからないまま今に至る。

 

話は変わるが、先月、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫の『読書道楽』を読んでから、ジブリへの関心が高まってきている。
私の中でいま、ジブリがきているのだ。
改めてジブリを知ろうと、手始めに『ジブリの哲学』を読んでみた。
残り50ページという段になって、それはいきなり現れた。
鈴木敏夫吉田拓郎についてしたためた短い文章のなかに、19年来の疑問への解答があった。

どの曲も好きだったが、とりわけ「今日までそして明日から」は心に響いた。僕がたしかに大学四年のときに観た映画『旅の重さ』の主題歌だったからだ。

これや。
これやないか!
これやないかい!
拓郎バックの白黒映画!
あったやないかい!!

家庭も学校も嫌になった一六歳の少女が自分探しの旅に出る。ヒロインの高橋洋子が初々しかった。全編この曲が流れており、耳から離れなくなったのだ。

これや!
少女歩いとるやないかい!
夢じゃなかったんや!
夢だけど夢じゃなかった!!!!!!!

 

そういうわけで『旅の重さ』を鑑賞した。
なぜキリスト教の授業でこの映画なのかという疑問がまだ残っている。
そういう視点で観てみたわけだが、結果から言うと、よくわからなかった。

16歳の少女が母親に嫌気がさし、家出をして四国お遍路に出るというロードムービー
旅を通して出会った人たちとの交流や経験から、自分を見つめていくという筋だった。
四国のお遍路という点で、信仰や巡礼の要素があるといえばあるそうだが、この映画の主題ではないし、少女はお遍路がなんたるかもよくわからないまま旅をしている。
中盤で大衆演劇の一座と出会って以降は、お遍路の要素もなくなっていく。
だからなぜあの授業で、この映画を取り上げたのかますますわからなくなったというのが正直なところだ。

ところで、少女が出会う演劇一座の座長役を演じている役者が三國連太郎だった。
映画公開の1972年当時、49歳の三國連太郎と、佐藤浩市がそっくりなのだ。
瓜二つ。
この映画の一番の驚きポイントだった。

そしてもうひとつ、私のまどろみのなかの記憶では白黒だったのだが、それも違った。
昔ながらの色合いではあったが、カラー映画だった。
記憶の曖昧さをまた痛感した。

吉田拓郎の「今日までそして明日から」は映画の意雰囲気によく合っていた。
山、川、田んぼに畑、海があってトンネルがあって、夕焼けがある。
美しい風景の中を歩く少女の青春に、拓郎の歌がどこか淋し気に響いていた。


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