カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.5.28(日) 『寡黙な死骸 みだらな弔い』

 すばらしく天気のいい日曜日だった。空にはひとかけらの陰りもなく、乾いた風が緑を揺らし、目に映るものすべてが光に包まれていた。アイスクリームスタンドの屋根や、野良猫の瞳や、水飲み場の蛇口や、鳩のフンがこびりついた時計塔の台座さえもが、誇らしげに輝いていた。

最初の何行かを読むだけで、この作品は傑作だと確信できるすばらしい冒頭の小説がある。
小川洋子の『寡黙な死骸 みだらな弔い』が傑作であることを、この三文は予感させる。
さらに続く数行で、その予感を確信に変えてくれる。 

 広場は休日を楽しむ人々でにぎわっていた。風船売りがキュルキュルという気持ちのいい音をたてながら、次々風船を動物の顔に変えていった。それを不思議そうに子供たちが見上げていた。ベンチに座った婦人はセーターを編んでいた。どこかでクラクションが鳴り、一斉に鳩が飛び立った。驚いて泣き出した赤ん坊を、母親がそっと抱き上げた。
 どこにも傷んだり欠けたりしたところのない、一枚の完全な風景が、光に映し出されていた。それをじっと眺めていると、隅から隅まで、どこを見回しても、この世に失われたものなど何もないのだ、という気がした。

風船、子どもたち、セーターを編む婦人、飛びたつ鳩、赤ん坊と母親。
日曜日の広場の風景はあまりにも美しすぎて、それだけでこみあげてくるものがある。
「どこにも傷んだり欠けたりしたところのない、一枚の完全な風景」とあるが、この冒頭だけでもこの小説は完結している。
そのように思ったとしても、決して言いすぎではないだろう。

とある哲学者は「すべての西洋哲学はプラトンの注釈に過ぎない」と言ったそうだ。
これに倣ってみるならば、「ここから先の物語は、冒頭広場の風景の注釈にすぎない」とでもなりそうだ。
それくらいにじんわりと心にくる冒頭だと思った。

この多幸感に満ちた広場の「完全な風景」とタイトルの『寡黙な死骸 みだらな弔い』との釣り合わなさが、行間に漂う深い哀しみをじんわりと突きつけてくるきがする。
だからこそすごい冒頭なのだと思うのだ。

連作短編の一編目を読む。
洋菓子店に苺のケーキを買いに来た女性と、同じく店に来た老婆との会話から、女性の抱える苦しみ、哀しみがあきらかになっていく。
そして店の奥のキッチンで電話をしている女性の後ろ姿が、静かな余韻をもたらしてくる。
やはり傑作だ。
残りの10編もゆっくり読みたい。


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