カフェオレの泡

浮かんでは消えていく泡のようなもの

【読書日記】2023.6.4(日) 『荒地の家族』

Jリーグサンフレッチェの試合を観戦に行く。
今日は次男とふたりで。
長男もいっしょに行くと言っていたが、「貴重な休みの一日をサッカーに費やすわけにはいかない」そうで、友人とあそぶんだとかなんだとか。
そういう年頃になってきたのだなと思う。
駅まで妻に車で送ってもらい、コンビニで食料を調達し、電車の乗る。
駅には浴衣を着た女性がちらほらいた。
金曜日から三日間、街では大規模な祭りが開催されている。
規模が徐々に拡大され、コロナ以前の祭りに戻りつつあることは喜ばしい。

サンフレッチェの試合も、今日は浴衣デイということで、スタジアムに向かう電車にも浴衣の女性が何人もいた。

先週に比べるとかなり涼しくて、観戦にはありがたいコンディションだ。
スタジアム名物ポテりこを次男と私の二人分買い、試合が始まるのを待つ。
次男はかき氷も食べていた。
コンビニで買った、マンゴーのグミが美味しかったらしく、満足げな様子であった。
小学1年生の次男は、サッカーを観てるんだか観てないんだかよくわからないまま、主に小学校での生活についてしゃべっていた。
サッカーを観戦してるかどうかはこの際、もはやどうでもいいのだ。
気持ちの良い場所で、グミを食べてだべる。
たまたま目の前でサッカーの試合が行われてている。
それくらいのゆるさを積極的に許容していきたい。

サンフレッチェは3-1で勝利をおさめ、気分良く帰路に着いた。
駅にはこれから街へと向かう浴衣の子たちがたくさんいた。
祝祭と呼ぶにふさわしい一日だった。

帰宅してから、『荒地の家族』の続きを読む。
主人公の祐治が夜の田んぼ道で脱輪し、側溝にはまるシーンがあった。
通りがかりのおじさんが手を貸してくれ助かるというそれだけの場面に、いや、それだけだからこそというべきか、寂しさが漂っていた。
側溝にはまる直前に、祐治は人生について想像していた。 

 祐治は人の一生を想像した。
 生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にとぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。
 水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。 弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過として一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。

出典:佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社)

私はこれまでにどれだけの水をこぼしてきただろう。
あとどれくらい残っているだろう。
家族にとって自分という存在は、どれほどのものなのだろう。
溝にハマっても誰かが助けてくれたシーンは、人生の比喩でもあるのだろう。


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